とある受験生の日記 2021/1/22

【なんやかんや頑張った】

昨晩寝落ちしたおかげで、今日は一日中眠気に苛まれることがなく、最高の状態で授業を受けることが出来た。寝落ちして睡眠時間を確保した分元気になってしまうのは、少々腹立つシステムである。

どうも、受験生0学期の大越(おおごえ)です。

寝落ちの事を書こうと思う。今週もとりあえず日記を継続出来て良かったのだが、内容を思い返してみると、如何せん寝落ちの話が多い様な気がする。私の友達にも「昨日は予習やってたらいつの間にか寝てた」と漏らす人は多い。

無理もない。

毎日早起きして電車に乗り、授業を受けて部活までして、また電車に乗って帰ってきているのである。一日に一体どれほどのエネルギーを消費しているのだろうか。肉体的な疲労はもちろん、時には精神的に疲弊している日もあるだろう。ここで平安貴族の生活に目を向けてみよう。あいつら和歌ばっか詠んで恋愛してる。彼らが「桜エモーい!」と暇つぶしがてらに書いた和歌を、21世紀の学生たちが必死こいて解読させられているのだ。なんだこの時間差攻撃。釈然としない!

時代は令和である。世の高校生たちは今日も寝落ちをする。私も寝落ちをする。自己肯定感がさほど高くない私にとって、寝落ち後の朝は最悪の気分である。自己嫌悪感が脳味噌の真ん中で胡坐をかき、「お前、なに寝ちゃってんの?」と執拗に責めてくるのである。

「授業の予習どうすんの?」

「昨日から全く成長してないよ?」

そうだ。私はこの「昨日の自分と何も変わっていない今日の自分」という感覚が大嫌いだ。周りの同級生たちは昨晩の家庭学習で、少なからず「成長」を成し遂げているはずだ。そんな中、寝落ちして時間を浪費した私は、昨日の自分から何一つ成長をせずに今日をむかえているのだ。昨日の24時間で完全に手垢にまみれてしまった定位置から一歩も動き出さないでいて、今日の24時間でまた更に手垢を加えていくのだ。

焦っているなぁ、と自分でも思う。「成長」という言葉に多大な執着心を抱くようになったのはいつからだろう。

自己嫌悪感を拭いきれないまま、私は学校へ向かった。電車の中で、昨晩に終わらせる予定だった予習に取り組むと、非常に惨めな気分になる。いつになったらこんな生活は終わりを迎えるのか。これは「寝落ちをしてしまう生活」というよりも、「成長に追われる生活」についての心配な気がする。

17年間生きてきて何となく気づいたことであるが、どうやら人間という生き物は一生「成長」せざる負えない立場にいるようだ。本屋では「教養を深める」や「大人になってからの学びなおし」「今さら聞けない○○の話」のようなタイトルが所狭しと並んでいる。私の住む小さな街では、今日も誰かが「成長」を強いられて、昨日の自分を否定しているのであろう。

私は所詮高校生である。ここで「もっと一休みしようよ~。成長ってそこまで大切なのかしら?」などといった無責任な言葉は書けない。こんないかにも真理をついた風の文句、書けないというか、思ってもいない。

ただ、手を握り締めて応援するのである。今日も「成長」と駆けっこをしているこの世界の誰かと、自分自身に向けて。小学校の運動会みたいな声援はそこにはないから、音楽を聴いて映画を見て、本を読んでアニメを見て、走る自分を奮い立たせている。

ゴールテープはまだ地平線の先であろう。今の私の位置からは到底見えそうにもない。そもそもゴールなどあるのだろうか?

もしもゴールの瞬間があるのなら、その時は是非笑っていたいです。