死なない理由 テール
しゃくしゃくしゃく。
牧草を食べる音。
私の部屋には生き物がいる。
私が顔を近づけると、花のような草原のような、ミルクのような匂いがする。
ちいさくて、まんまるで、ふわふわの生き物。
性格はマイペースでドジ、時折とても甘えん坊。
私はその生き物のちいさい手とピンクの口が特に好き。
2017年、私はうつ病になった。
まさか私がなぁと思ったが、思い当たる症状がありすぎて病名を告げられた時は正直ホッとした。
まあ半年か1年で治るだろうと思っていた。
過去の私にネタバレすると、6年経っても治っていない。
そもそも治るものではなく、受け入れて生きていくものなのだと悟るのにはそれなりに年月がかかった。
この年から病気は「私」の一部になる。
働くこともできず、実家に住まわせてもらっていたが、夜ご飯以外の時間は自分の部屋で1人だった。
母と妹に少しでも病気のことを話すと重たい空気になるため、家族に病状や悩みを打ち明けることはほとんどなかった。
昼間は祖父母もいたが、要件以外は特に話すことはなかった。
当時付き合っていた彼氏にも気を遣って病状は話さなかったし、振られるかもと思って弱音も吐かなかった。
1人で抱え込むのが私の悪い癖だ。
かと言って、今考えてもその時の私の周りには病気のつらさを受け止めてくれるような人はいなかったと思う。
病気について何も言わず実家に住まわせてくれる家族、病気になっても付き合っていてくれる彼氏がいることはとても贅沢なことだと思っていたし感謝しかなかったので、相談できないことに関しては特になんとも思っていなかった。
それまでも自分の感情や悩みはずっと1人で消化してきたから、普通のことだった。
私は寂しがり屋な方ではないと思う。
体調が悪く出かけることもできなかったため毎日部屋で1人だったが、Twitterで私以外の病気の人と交流していた。
インターネットはすごい。
便利な時代に生まれたものだ。
そんな生活が1年弱続いた頃、猛烈にペットが飼いたくなった。
自覚はなかったけれど、たぶん寂しかったのだと思う。
さすがの私も温もりを欲したのだろう。
犬が好きだから犬を飼うことを考えた。
母に言うと、友達の犬が臭かったらしく絶対反対の姿勢。
うるさいのも嫌だと言う。
私も散歩に行ける自信がなかったから犬が可哀想だと思い、諦めた。
それなら猫はどうか。
祖母が大の猫嫌いだ。
諦めた。
私はペットを飼うならもふもふの生き物が良かった。
もふもふしたかったから。
色々調べた結果、うさぎはどうかと考えた。
散歩に行かなくてもいいし、鳴かない、糞尿はそれなりに臭いらしいがうさぎ自体は臭くないらしい。
何より、もふもふだ。
私の頭の中はうさぎ一色になった。
母には反対されたが、なんとか飼えることになった。
すぐにうさぎ専門店に向かった。
(今なら保護うさぎからお迎えしたいと思うけれど、初めての場合うさぎ専門店でのお迎えがいいとのネットの意見を読んだため。)
うさぎの情報もたくさんリサーチして、たれみみのうさぎは耳掃除が大変そうだから、たちみみの茶色のネザーランドドワーフがいいなーと考えていた。
うさぎ専門店に入る。
子うさぎたちがたくさんいる。
お昼過ぎだったので子うさぎたちはみんなお昼寝していた。
そんななか、
しゃくしゃくしゃく。
1匹だけ牧草をモリモリ食べている子がいた。
か、かわいい…
たれみみで白と茶色の毛色の子だった。
みんなが寝てるのに1人で(1匹で)食べてるマイペースさと必死さ。
その子にしか目が行かなかった。
店内を何周もまわって他のうさぎもくまなく見たが、私の心はその子で決まっていた。
その日から部屋には私以外の生き物がいるようになった。
うさぎの名前は、当時英語の勉強のために読んでいた絵本ピーターラビットの中に登場するコットンテールというキャラクターから取って、テールにした。
テールはいたずらっ子だった。
おしっこはそこら中にするし、充電器を噛むのが大好きだし、売ろうとしていた本もボロボロにされた。
小さい頃はしつけのためだと、コラ!!とよく怒っていたが、途中で意味がないと分かって、きちんといたずら対策をするようになった。
テールは怒られると、守ってくれそうな他の人間のところに逃げる。
おやつがもらえる時間帯になるとソワソワしだす。
私のベッドのことをトイレだと思っていて、おしっこで日本地図らしきものを描いたこともある。
実を言うと、うさぎを飼おうとした理由はもう一つあった。
私はいつか子供が欲しいと考えていたのだが、果たして自分が子供を育てることができるのか、本当に愛せるのかが分からなかった。
そこで小さな命を飼って、自分を試してみたいという気持ちがあった。
最低である。
もちろんお世話はずっとするつもりだったが。
テールを飼って、自分がきちんとお世話できるのか、愛せるのかとても不安だった。
子うさぎのテールを見ては、大丈夫だろうかと心配になった。
月日が経っても私は毎日テールのトイレを掃除して、お水と牧草とペレットをあげていた。
お世話を苦と思ったことはなく、むしろ暖かい気持ちになった。
テールは相変わらずいたずらっ子だったが、家族に話すとみんな笑顔になって、なぜかテールは褒められた。
朝起きてテールを見ると、何だこのかわいい生き物は…!!と毎日新鮮な気持ちで思ったし、今日も生きていてくれてありがとうと感謝した。
面倒くさがりの私だが、誰かの面倒が見れるのか。
そしてたぶん、これがきっと愛するということだとテールを見て思った。
少し自分に自信を持つことができた。
うつ病の症状の一つに希死念慮というものがある。
脳が勝手に死にたいと思うのだ。
私の場合、うつ病になってからすごく初期の段階で激しめの希死念慮に襲われたが、その後はあまり思わなかった。
だけどたまに、わー死にたいなーという時があった。
死のうかな、うーん死のうかな、と具体的な方法で頭がぐるぐるしていたら、テールの姿が見えた。
涙がボロボロ落ちてきた。
あぁ、テールには私しかいない。
私には色んな世界があるけれど、テールにはこの部屋と私が世界の全てだ。
私がいなくなれば、その世界を奪うことになる。
テールは言葉通り、生きていけない。
泣きながらテールをなでに行くと、テールは頭を下げて目を細め、気持ちよさそうに歯を鳴らす。
ごめんね。ありがとう。
6年付き合った元彼とは結婚する予定だった。
結婚前提で同棲の計画を立てていたのだけれど、テールのことで揉めた。
私はテールを連れていくつもりだったが、彼は無理だと言う。
ペット可の物件は家賃が高くなると。
築年数が古い物件にすればよくない?と言うと、
友達を呼びたいから築浅がいいらしい。
結局どちらも折れずに同棲の話は進まず、
しばらくして別れることになった。
薄々気づいてはいたが、元彼はモラハラだった。
私が彼に強く意見して、反対されても引っ込めなかったのは、後にも先にもこのテールの件だけだ。
元彼は病気にも理解がなかったし、もし結婚してもいい未来は望めなかっただろう。
テールのおかげで別れられたのだ。
テールはすごい。
それから婚活をして、今の夫に出会った。
とても優しくて、人に弱みを見せられなかった私が、弱い部分を全部出せる相手だった。
つらさを受け止めてもらえたからか、夫と同棲を始めてから、5年間何をしても横ばいだったうつ病の症状が徐々に回復していった。
夫とはマッチングアプリで出会ったのだが、テールと私が映っている写真を見て、この人とうまくいきそうな気がすると思ったそうだ。
夫もまた、私の死ねない理由である。
もしかしたらテールが死ねない理由を増やしてくれたのかもしれない。
テールはすごい。(2回目)
そしてもうすぐ妊活を始める。
以前だったら考えられなかった減薬が来週終わる予定だ。
もちろん人間の子供とうさぎは違う。
舐めてかかってはいけない。
ただ、私にも小さな命を愛することができるという自信をテールがくれた。
テールがくれたものは数え切れない。
テールは今は目が見えず、耳も聞こえないが、私のにおいがすると走って寄ってきてくれる。
毎日なでているが、最近は1時間以上なで続けても足りないようだ。
しゃくしゃくしゃく。
この音を聞くたび、私は愛おしい気持ちでいっぱいになる。
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