『宵紫、白梅』 |短編 シロクマ文芸部
本文 約3500字
梅の花の咲くあの林のなかに、佳奈子はいるのだと、瑞也はすぐに感じた。
二月。
あの父親もなんでこんなときに電話寄越すのかしら、探してくれだなんてばかじゃない。あの子むかしから情緒不安定だったからいつかこんな騒動になるってわたし思っていたわ。行方不明でももうなんでもいいわよ。
電話を置き、瑞也の母は台所に戻っていくときにひとりごちた。
そんなんだから絵なんて描いているのよ、薄気味わるい、瑞也、あなた、お式の前の大切なときなんだから、あんな家族にかかわっちゃいけませんよ。ほんとうにお式に呼ばなくてよかったわ。
社から帰宅した背広のままの瑞也が鞄を脇にかかえ玄関で靴を脱ごうというそのとき、母の声が聞こえた。
そしていつものとおり、茶の間の向こう、縁側で、浴衣姿の父がビールを飲みながら煙草をふかしているのだろう。瑞也は父はいま、なにも聞きたくも、話したくもないはずだとおもう。
瑞也は母に「そうだね」と言って階段を上がり、自分の部屋の襖を開け、カバンを置いてスーツを脱いだ。机の隅のペン差しの脇に何年か置かれている、青紫色の顔料が入った小瓶を見た。
一階へ降り、脱衣場ですべてを脱ぎ、風呂に浸かる。
その湯の面を見ながらおもう。
親族の間柄とはいえど、すばらしくかわいらしかった他人の娘への、女の忌しいほどの嫉妬だろうかと、先の母の語気から瑞也はふと感じた。
五年前、十三のときの佳奈子に最後にふたりで会ったその二月の夕暮れの林の中。
そのとき、瑞也もまた佳奈子を真正面に見ることは難しかった。
いっしょに美術館に上野に行った帰りだった。
夕日に染まる叢を、走る制服姿の佳奈子に腕をつかまれて、瑞也はその梅林に連れられていった。
おかっぱで、切れ長のその子供の眼が、ときどき自分を振りかえるたび、夕灼けが映えてその眼の潤みがひかる。
「夕方に、空が赭から群青に変わる時間、梅の花の下にいるとすごくきれいなんです、だから行きましょう、はやく、はやく」
中学にあがったら美術部に入って絵を描くのだと、まだ彼女が小学校を卒業する年だったころに花見の席で彼女から聞いた。
桜の下、親族が十人以上も集まったなかに、佳奈子は大学生だった瑞也の横にちょこんと座って、その眼でまっすぐに瑞也を見て言った。
「美しいものはいいでしょう? それが人の手で描けるなんて素敵でしょう? わたしは勉強も気遣いもなにもできないから、なんにもわからないから、だから描くことに決めたんです。ひとさまに価値があるっていわれる絵を、たくさん」
小学校の卒業祝いに瑞也は街の画材店に行き、木箱に絵の具やパレットや数本の筆がそろった油絵入門セットを買い(瑞也はそれがこんなにも高いものだと知らず、彼はしばらく具無しの袋ラーメンだけで下宿屋での毎日を凌ぐことになった)、郵便局から彼女の家に送った。片親の、あまり裕福でもない家だとおぼろ気な事情だけ、彼は知っていた。
そしてしばらく、なにも返信はなかった。
下宿屋に電話がかかってきたのは瑞也がなんとか大学の論文を書き終え卒業がきまって暇ができた、ある二月初旬の夕方。
「美術館に行きませんか」
受話器のむこうに佳奈子の声をひさしぶりに聞いた。良いよ、と彼は応えた。
受話器の向こうで十円玉が落ちる音がした。じゃあこんどの日曜日の九時に駅で。返事をする間もなく電話は一方的に切れた。
美術館からの帰り、街外れの夕方の叢、ちいさな手で彼の腕を曳く佳奈子に瑞也は問いかける。
「ねえ、ともだちはできたかい」
「そんなもの、絵を描くのに必要ないってわかったんです」
「あそんだりもしないのかい」
「そんなことしたら将来美しい絵を描けなくなりますから。ただただ、いまは絵を描いているんです」
「描くことはたのしいかい」
佳奈子が足を停めた。
「まだ、先生の言いつけで、木炭とパンと水彩だけしか使ってはいけなくて。瑞也さんがくださった絵の具セット、まだ箱しか開けていません」
そして彼女は振りかえった。
「でも、とてもとてもうれしかった。だから、もうすぐ梅林ですから、まだ夕暮れは終わりませんから、おねがい」
瑞也は彼女に強く袖をひかれ、ふたりは走りだす。
林に着く。近くにおおきな河、その向こうに学校がみえる。
梅の木は、桜ほど高く育たない。
まだ背のひくい佳奈子にとって樹々のあいだをすり抜けることは容易でも、十分に大人の身体になってしまった瑞也に、髪や袖にそのごつごつとした枝がときどきひっかかる。
身を屈めて佳奈子に聞いた。
「どこまで行くの」
問いに振りかえる佳奈子の、はっきりと眼のうるみがわかる近さだった。
「もうすこし、林のまんなかまで」
「もう、十分じゃないか」
「じゃあ、ここでもいいです。すわって。そらを見て」
瑞也はそのまま仰ぎ見た。べに色ひとつ無い、薄黄に咲く梅の花ばかり、その花々のすきまから、空は赭を過ぎて青くむらさきへ、そっと暗くなりはじめていく。
「瑞也さん、夕暮れがおわるまで、ちょっと時間がかかります」
比較的おおきな梅の幹のふもとに、佳奈子が両手でスカートを揃えてから座る。
白い花々のあいだから金星の輝きが差していた。
すわらないんですか?
「ああ、僕の背が邪魔だったかな」
ジーンズに土がつくのが嫌でなければ、もっと近くに。もうひとつ、見てほしいものがあるんです。まだ暗くならないうちに。
彼は座った。
瑞也さん、そらを見ていて。
従った。
瑞也さん、ねえ、きれいですか?
翳りゆく薄黄の花色、隙間にとおく太陽の名残りの青紫のそら。
「きれいだね」
佳奈子は制服のポケットから小瓶を出し、瑞也の、花々と夕暮れのを見る視線、そのすぐ横にかかげる。彼女の親指ほどの、封をされた小瓶。
「似ていませんか、この色、この空の色に。コバルトの紫っていうんです、絵の具のもとの顔料という、とてもこまかい粉なんです」
「どこからこれを」
「教材室から。わたし、まだ中学生なんだから、大丈夫です」
佳奈子が笑っていることに、そのとき瑞也は気付いた。
彼は佳奈子をまっすぐ見て言う。
「二度と盗むなんてこと、絶対にしないでほしい」
佳奈子は途端にこわばり、ゆっくり、ちいさな声で返した。
「ごめんなさい。もう二度と、こんなこと」
うつむいて、佳奈子は差しだした。
「この小瓶、もらってくれませんか。わたし、した事にいま気付いて、棚に返すのが、怖い」
瑞也はためいきをついた。
その隙に佳奈子は手を伸ばし、瑞也のシャツのポケットに小瓶を入れた。そして言う。
「ありがとうございます」
もういちど、瑞也はため息をついた。
「なんて馬鹿な子なんだ」
佳奈子はわらった。涙がこぼれていた。
「よく言われるんです」
その色、きょうふたりでいた夕暮れのいろ。
それがわたしの色だから。
夜を迎える梅の林に、そのとき瑞也の片耳をつかみ顔をひきよせ、佳奈子は眼を閉じた。
唇をそっとあける。
そして佳奈子はうすく両目をあけ、瑞也を見る。
自宅のあかるい浴室の天井から、一滴、湯船に落ちた。
瑞也は湯から上がり、身体を拭いた。下着をつけ、ジーンズにラガーシャツ、ジャケットを羽織り外で出る。行くなやめろと怒鳴ったのは彼のうしろに立った父だった。
瑞也はかまわず靴を履き、玄関の戸を開けそとに出る。
あのときの美術館からの帰りの駅からは、遠い林だった。けれど、家から歩いて交番に場所を尋ねると、それほど遠くもなく、林はみつかった。
懐中電灯を照らして林に入る。
河の流れる音だけがした。電灯を上に向ける、これぞ満開な白いちいさな梅の花。
ふたたび地面を照らして進む。闇夜からだにかかる枝は折って捨てた。あたま、肩に、花弁がかかろうと、なにも感じなかった。
ただ進んだ。そして彼女がいた。
五年。
かつて見覚えのある、その梅の樹のふもとに、佳奈子が足をそろえて折って、よりかかっていた。
背たけが伸びていた。腕も足も細く、あのころのままに、ただ成長していた。
彼女の右手のしたに、粉のこぼれた、ほんとうにちいさな小瓶が落ちていた。
尋ねた。
「絵描きさんにはなれそうかい」
樹の幹のふもと、彼女のとなりに瑞也は座った。
「見てごらん」
うなだれたままの佳奈子に呼びかける。瑞也はじぶんのジャケットの懐から小瓶を出した。
五年。
それを夜空にかかげる。なにも色などわからない。ただ、これはあの日の夕暮れの色だという記憶。
「この春に、ぼくは会社で知りあった女性と結婚する。いいひとだし、今度、会ってほしいな。きみほど、可愛いひとじゃ、ないけれど、でも」
瑞也がその顔料入りの小瓶をどれだけ強く握りしめても割れることがない。
「とても、とても、すてきなひとなんだ」
小瓶の蓋に貼られた古びた封紙を両手でかまわず捻じ切り、いまの佳奈子の唇のいろと同じその粉を、瑞也は地面に捨てる。
そして立ちあがり、その粉のありかを土のなかへと靴で強く踏みにじった。
そして瑞也はしゃがみ、虚ろにひらいた佳奈子の両目をみながら、そっと彼女のあたまを撫でた。
「ぼくらは、とても馬鹿な子供だったんだ」
初稿公開日時 令和六年二月十六日 午後三時
本作品をここまでお読みいただき、
まことにありがとうございました。
この作品は シロクマ文芸部 参加作品です。
いつもありがとうございます。
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