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三浦大知 - ERROR って、なにがエラーなんだろう

先日夜ごはんをたべながら、「なんでERRORってタイトルなんだろうね」「不思議だね」という話をした。

このERRORという曲は、OVERという今年発売されたアルバムに収録されていて、アルバム全体の中でも唯一、ある種の異質さを感じさせる。
全体的に力づよさとエネルギーを感じるビートやベースの目だつ曲たちのなかにあって、2000年ごろの2-stepを思い出させるような曲だ。日本ではm-flocome again2-stepといわれていますね。
2-stepというジャンルは、すくなくともメインストリーム上では、とんでもなくブームの短かったジャンルで、記憶が正しければ1年ほどで忘れ去られてしまったかなしいジャンルだった。
アートフル・ドジャーやクレイグ・デイヴィッドといったカリスマがメインストリームから忘れられていくとともに、2-stepもまたdubstepにとってかわられていった印象だ。
ERRORをはじめて聴いたとき、それこそ"単色のグラデーション"的にざわっとあのころの音楽を思い出して、とってもなつかしい気持ちと、"もう二度と戻ることない"あらゆることがらに、想いを馳せた。
それはうつくしいノスタルジアだった。

ノスタルジアというのは、脳のエラーなのだと思う。あるいは、時間という概念の中のどこにも属していない、ある意味で"存在しないのに感じることのできるもの"がノスタルジアだ。
「過去のできごと」という確かに"存在したもの"の上に、トレーシングペーパー的に覆いかぶさる薄い膜がノスタルジアの本質である。なつかしさやノスタルジーというのは、「過去のできごと」そのものではない。なぜって、それは感情であって、事実ではないから。
ノスタルジアという薄い膜は、感情と無数の事実のあいだにたしかにあって、同時に、実在しない存在なのだ。

この薄い膜は、ときに「過去のできごと」を厳密に捉える妨げになる。「思い出補正」という言葉があるけれど、これが強すぎるとあらゆる新しいことがらが、くだらなく見えちゃったりする。
本来の脳の機能としての記憶が効率的に働かないという意味で、このノスタルジアというものはエラーなのだといえるかもしれない。

だけど、この"いわゆる"エラーこそが美しさだとわたしは思っているし、人生というのはノスタルジアそのものだと思っている
脳の機能的役割だって、なにも記憶だけが役割じゃないのだ。
ノスタルジアという薄い膜から、らんぼうないいかたをすれば、その薄い膜のみから、創造性がうまれる。
時間という概念の中ではノスタルジアはエラーそのものでしかない。過去/現在/未来の中に、その薄い膜はそもそも存在しないのだ。
ひるがえって時という概念を考えるとき、われわれはノスタルジアをもって世界を捉えることができる。時という概念のなかでは、時間の流れる方向も、速度も、一定ではないからだ。
もしかすると、わたしたちは時間と時の狭間で、かなしさをかかえて、暮らしていかなきゃいけないのかもしれないね。

時間の中では"もう二度と戻ることない"なにかも、時のなかでは永遠に存在している。はたして、存在しているかどうかだって、あんまり重要なことがらではないのかもしれない。あなたが感じることがらだけが、そこにあるのだ。たとえそれにERRORと名前がついていたとしても。

◇ ◇ ◇

OVERっていう、前向きとも切ないともとれるタイトルのアルバムだけど、前向き加減なアルバムだな、とおもいました。前向きの権化たるKREVA先生もいらっしゃるし。そのなかに、(すくなくともわたしにとっては)なつかしさの象徴として存在する曲のなまえがERRORなの、よいなぁとおもいます。なつかしさのようなものでわたしたちは世界をとらえているのだから、""も"You"もわたしの一部であって、それはあたらしいもの(=人生)すべてなんだ。アルバム全体の前向きさとあわせて考えれば、ただただ「あのころはよかったな~」じゃなく、ノスタルジアというERRORを肯定することで、受け入れることで、OVER("二度と戻ることない"おわった状態)をOVER(のりこえていく)できるよね、ということなのかもしれないよね。それが創造性であって、愛であって、人生だから。エラーなわたしも、前向きな社会というアルバムのなかで、なんとかやらせてもらっています。
MVもありえないくらいかっこいいのでぜひ見てみてください。
またね!

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