見出し画像

かつて存在した、ギルワースという作家

「きみはプラスチックの溶けるところをみたことがあるか?おれはやつらが溶けたのをごまんとみてきた。仕事だったからな。」彼は言った。
「でもその動きも匂いもおれはしらない。」

引用:『溶けている氷』/ N.ギルワース (訳・著者)


 ギルワースというひとは、一言でいえば、とても不遇な作家だった。日本では原語版のペーパーバックを入手することすら困難、というより、その存在がほとんど知られていない。当然のように翻訳されているものは存在しないので、冒頭では私の稚拙な訳を使用した。
 私の調べたかぎりでは、彼はどうやら1960年代のどこかでものを書き始め、30年ほどして、モンタナの大きなロッジ(彼の別荘だったとも、友人のものだったともいわれているようだ)の梁からぶら下がっているところを発見された。自殺したのは1989年、あるいは1993年とされているようで、はっきりしない。1996年の地方紙に、それに言及したちいさな記事が載っている。記事を読むと、少なくとも彼が首をつってから3~7年後にはすでに、ギルワースは作家として認知されていなかったようだ。モンタナの大きなロッジで発見された遺体、としてのみ記録されている。それでも生前、たしかに数点の作品(うちひとつは詩集とも絵本とも言いがたいなにかだ)が出版され、ビート・ジェネレーションの偉大な作家たちに引っ張られるようにして、熱心なファンが一定数存在したようだ。

ギルワースという作家

 ギルワースというひとは、この世に存在しない。彼は今朝、私がコーヒー豆をはかりながら考えた架空の作家だ。いま「ギルワースというひとは、この世に存在しない。」と書いたことで、彼の実在は終わってしまったけれど、今日一日のあいだ、彼はたしかに私の世界にあった。

ハートフィールドという作家

 村上春樹というひと(いうまでもなく実在の人物だ)の書いた小説に、デレク・ハートフィールドという空想上の作家が出てくる。とにかく描写も見事だし、作品を読んでみたくなるような紹介のされ方をしているから、私は中学生の頃に、近所の書店(洋書も扱っているような大きな本屋さんだった)で、ハートフィールドの作品を探したことがある。のちにわかることだが、私がそうする30年ほど前には、すでにたくさんの人がハートフィールドについて調べまわり、全国の図書館勤務のおにいさん/おねえさんを困らせていたらしい。

かつて、存在しないものがそこにあって、そこになくなったために、新たな存在しないものが生まれた

 そんな"ハートフィールド事件"について知ったとき、私の世界にハートフィールドは実在しなくなった。書店の棚のあいだを、探偵気分で歩き回っていたとき、彼はたしかにまだ存在していたし、中学生探偵の私が「証拠不十分で迷宮入りだ」と結論づけてからもしばらく、まだハートフィールドは"そこにあった"。時間が流れて、私はカート・ヴォネガットというひとの小説を読み、キルゴア・トラウトというこれまた架空の作家に出くわし、ハートフィールドと、それにまつわる"仕組み"のようなものを理解した。それは美しくて、宇宙的な仕組みだった。

12時間だけ存在したもの

 ハートフィールドやトラウトは、かつてたしかに私の世界に存在していた。彼らはもうそこにはいないけれど、いま私の世界で重要なことは、彼らの存在のある/なしではない。彼らがかつて"そこにあった"ということだけが意味を持っている。
 ギルワースが私の中に存在したのはせいぜい12時間くらいだ。これを読んでくれたあなたの中にはどれくらい住み続けてくれるだろう。存在の時間的長さはあまり重要ではないかもしれない。だって私の世界のどこかには、まだサンタさんがいるかもしれないし、ノーベル文学賞の発表時期になると、なんだかむずがゆい気持ちと一緒に、たくさんのハートフィールドがまだ"そこにある"ことに気付かされるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?