読書感想文:世界と私のAtoZ:ミレニアル世代はZ世代とどう接すれば良いのか?
ミレニアル世代のリアルな老い
この間まで23歳であったのに、気づけば37歳になっていた。30歳くらいまでは冗談半分に同期たちともうおっさん(おばさん)だよーwとか話していたのであるが、正直もう笑えないレベルで、様々な場面でおっさんになったと感じる。解釈の余地なく、中年である。
大学生の頃、大学の近くにある天狗酒場がランチ500円で油淋鶏定食が食べられ、ご飯味噌汁お代わり無料であったために、少しお金に余裕があるときはそれを限界まで胃袋に突っ込み、午後の授業は民法の教科書を枕によだれを垂らして教室で寝るというのが習慣であった。油淋鶏は青年メン獄にとって幸せの象徴であったのだ。今、油淋鶏、まじで食えねぇ。正直3キレくらいでいい。湯を通したササミを柚子胡椒であえたもの、とかが食いたい。
働き始めてからしばらくは夜中4時頃まで酒飲んで翌日9時から働くということが日常であった。それはそれで問題なのであるが、別に5時に寝て8時に起きたらまぁなんとなく働けたし、特に二日酔いになるということもなかった。今そんなことをしたら確実に体がバラバラになる。
身体的な老いの実感もさることながら、20代の人間がいる飲み会で、グラスが空いた時に後輩が飲み物をついでくれようとしたりすると、感じる。老いを。
ということを言葉にすると、「メン獄さんは見た目若いから全然気にならないですよー笑」とフォローされ、その気遣いにより完全に自分がおっさん側になったのだという事実を一晩ゆっくりと咀嚼することができる。
若者に気をつかわれる典型的なおっさんである。
一方で、特にコロナの行動制限が緩和して以降、カラオケで稀に20代前半の人と同席すると、意外と彼・彼女らは我々の世代、つまりはミレニアル世代のアンセムも当然のように知っていて、中年の我々と一緒に歌ったりしている。20代前半の若者、つまりはZ世代が上の世代とのコミュニケーションのために、カラオケのヒットソングを意識的に学習しているものかと思っていたのであるが、どうやら事実はそう単純なものでもないらしい、ということが、この本を読むことで少しわかってきた。
竹田ダニエルさんのこちらである。
本を手に取った理由
この本を手に取ったきっかけはいくつかあるのであるが、一番のきっかけは自分はおっさんとしての加害性に無自覚になっとるな、という危機感である。
自分自身、特に不自由なく両親に育ててもらった、という自覚はあるものの、ではそれは特別なギフトであるのか?といえば、そうではない、というのが正直なところの自覚であった。小さい頃からハワイに旅行にいっていたわけではないし、慶應幼稚舎でゴリゴリの英才教育を受けたわけでもない。
しかし、SNSを通してさまざまな意見に触れる中で、生物学的に男性であること、ヘテロセクシャルであること、かつ正社員の立場であること、という属性を持っていることが自覚している以上に暴力性を伴うことであることを知るようになった。
んなもん自分も好き好んで享受したものではない、と心のどこかで思いつつも、社会というコミュニティに生きる1つの粒子として、自分が社会の中でどのような属性を持ちうるのか、ということについては多面的に知る必要があるであろう、と考えるようになった。では、Z世代と呼ばれる、私から見ての若者達に、私はどう見えるのか?そのヒントがこの本にはあるような気がしたのである。
Z世代とはつまりなんなのか?
結論、この本を読むことで、Z世代とはなんであるのか?ということについて完全に理解できるか?といえば無理である。というよりも、本一冊読んだくらいでわかったつもりになる、というような短絡的な姿勢こそが、Z世代から批判を受けるであろう、ブーマー世代ムーブであるり、すべきではない、というのが私の考えだ。
本冒頭で竹田ダニエルさん自身が指摘しているように、多様な価値観を持つことに特徴があるZ世代について、最大公約数的な一般論を述べることには限界がある。これはZ世代についてのみ言えることではないであろうが、特定のラベリングによって、彼女・彼はこういうラベルの人だから、こうなんだろうね、というのは属性の裏側にある個人の歴史に対してのディスリスペクトとなる。
では読む意味がないのか?と言われれば、「読むべき」と私は迷いなく答える。本書は、Z世代の中心にいる当事者の一人がZ世代について可能な限り言語化した、非Z世代の人間に取って貴重な当事者の言葉という一次情報であるからだ。
さて、本を通して語られるZ世代を私なりに要約すると以下である。
Z世代は絶望の世代である。
親世代が散々先行者利益を食い潰した世界を与えられ、十分な権力も与えられずに未曾有の災害や戦争を子供の頃から対峙せざる得ない世代である。
その当然の帰結として、親世代に対するカウンター的なアティチュードを身につけ、頑張ればなんとかなるという楽観的なマッチョイズム、自己責任論に異を唱えるようになった世代である。
経済的幸せとは切り離された個人的幸福追求こそがクールである世代。そしてSNSの普及により、個人の意見が時に世界へと拡散し、何かが変わることを現実的に体感している世代である。
本を完読し、机におき自分の周囲にいるZ世代のことを数人想像してみた。一番先に思いついたのは仕事を手伝ってくれているインターン生であった。本に描写されるZ世代的要素についてなるほど、と思う部分もあれば、こういう点は彼女・彼の個性なのであろうな、と思うところもあった。
私がインターン生達とどのように出会ったのか、というと?というと、実はかつて旧Twitterで「こんな仕事がある。給料は正直高くないのであるが、俺が責任を持って就職活動の面倒を見るからなんとか手伝ってくれないか?」と今思えば特殊詐欺の勧誘とほとんど変わらんじゃないかという手法でインターネットで募集したところ集まってきてくれた学生達だ(募集当時かなりネットで批判をいただいたので、なんとか無事それぞれの進路が決まりほっとしている)。
はじめて彼らと直接会った時、「Twitter上の募集に応募することに抵抗はなかったのか?」ということを全員に聞いたのであるが、もし(メン獄が)変な人だった場合はその時はその時かなぁ、というような回答が多く、なるほどさすがデジタルネイティブと感心した。彼らの世代にとってはデジタルとリアルの垣根はほとんど存在せず、匿名のインターネットの人だから悪い、わけでも、顔を合わせているリアルの人だから信頼できる人、というわけでもないのであろう。この辺りはアプリが起点となる恋愛が普通の世代、という点となんらか関連があるように感じた。
10人にも満たない彼らを母数として、世代について共通的な定義を導き出すことは出来ないであろうが、彼らは全員、日本の所謂大手企業の就職活動を余裕で突破できる学歴と能力を持っているにも関わらず、将来何をすべきか?ということについて、結論を留保しているように見えた。
とにかく給与の良い会社に行きたい、という野望は特段感じることはなかった。それ以上に、自分はなぜ働くのか?自分はなにならできるのか?どういう働き方が幸福なのか?なんのためなら働くつもりになれるのか?ということを時間をかけて探しているように見えた。
自分が就職活動をしていた時代(もはや15年前)においては、いまだに大手金融機関や総合商社、メーカーといった将来が保証された仕事に、自分の持ちうる特権(学歴や一定のコネを含む)の全てを使い、入り込むことがまだ根強い信仰としてあったように感じるが、そこからさらに10年が経過し、大手がクール、という概念は完全な死へと向かっているのかもしれない。
また、インターン生の一人は吉井和哉の大ファンである。
なにかのきっかけでJAMを知り、直感的に自分はこの曲を書いた人間のことを知る必要があると感じ、それ以降熱烈なファンであり続けているのだという。
ミレニアル世代でもかなり上の年齢層がどハマりしていたはずのイエモンが、サブスクサービスによってZ世代に再発見されたのであろう。
周囲の誰が好きであるかは特に知らないが、私が好きであるから、好き、というマイクロな世界・美学を持つこともまたZ世代的な特徴の現れと言えるのかもしれない。
だが、10名程度のインターン生の最大の特徴であったのは、矛盾のように読めるかもしれないが、それぞれが抜群に個性的であった、という点である。
それぞれ一人一人、彼女・彼らは・・・だからこうである、という括り方を拒絶するかのように、それぞれの価値観と思想、嗜好を持ち、地に足をつけて生きているという点こそが、Z世代としての特徴として彼らに顕現しているのではないか。
一方で、日本全体をマクロで眺めてみたときに、今やマンモス企業となったアクセンチュアをはじめとするコンサルティング業界がZ世代の就職の受け皿となっているのは不思議な思いを感じる。
大手という概念が死に、将来どうなるかの保証がない時代であるからという理由で、どこにでも”潰しがきく”能力が取りうる枠として人気なのか、あるいはホワイトになったという”前提”で自分の好きな時間を一定確保できる会社として人気なのか、私にはわからない。
日本におけるZ世代というのは、ダニエルさんがこの本で中心的に書いているアメリカのZ世代とは少し異なり、お国柄でローカライズされているものとも思える。このあたりは是非Z世代の皆様の率直なご意見をいただきたいと考えている。
ミレニアル世代はどうZ世代に接するのか?
残念ながら既に若者という人生のアドバンテージが失われつつある我らミレニアル世代であるが、ダニエルさんはあとがきに救いの言葉を書いてくれている。
人間生まれる時代を選ぶことはできないのであるからして、我々の世代は今からZ世代になることはできないのであるし、別になる必要もない。
少し先に生まれた人間として、社会全体として、Z世代とどのようにコラボレーションしながら、世界をよくできるか?という点に焦点を当て日々の生活をすべきである。
ダニエルさんが指摘するように、Z世代よりも少し早くこの世界に生を受けた人間として、過去の自分が与えられなかった選択肢を、Z世代やさらにその先の世代(ZZ世代・・・?)に残すためには、今ミレニアル世代としてなにができるかを自分たちに問わねばならぬのであろう。
私は、自分自身がミレニアル世代に属するからこそ、Z世代的価値観を知り、理解する必要性があると考える。それは例えば、母国語が英語でない人間が、英語を学ぶことであり、コンサルタントがクライアントの事業と歴史について学ぶことと共通している。他者へのリスペクトとしてそうするべきである。
他者の言葉に耳を傾け、こうであるか?と咀嚼して聞き返すコミュニケーションの連続が異なる属性間の摩擦のない人間社会の基盤になる。
俺たちの時代はこうだった(だからお前達もそれに従え)ではなく、俺たちの時代はこうだった(が、今の時代に則さないからこう変えるのはどうか?)という姿勢が大切であり、俺たちの世代はこういうのが流行っていた(からお前達はそのパクリを見ているに過ぎない)ではなく、俺たちの世代はこういうのが流行っていた(それがZ世代には今の時代にまた、どういう文脈でウケているのか?)という姿勢が必要である。
同じ言葉であっても、リスペクトの有無でその後の相互理解とその後の関係性の発展の余地は大きく異なるであろう。
また、我々が年をとったように、Z世代もいずれ年をとり、次の世代へと若者の看板を渡す。その時、年をとった人間はもう進化をやめ、新しい価値観から目の敵にされる存在となり、打倒されるものに成り果てるしかないのかどうかは、今まさに、ミレニアル世代がZ世代に対してどのように接するか次第だと感じる。
おっさん(おばさん)だからこそ、新しいものや考えを批判せずに、心を開き、自分で体験してみてその裏側にある歴史を調べ、ということを率先して行う必要が、年齢の経過=老害となってしまったこの世界を変えるために必要なことではないだろうか。
老害は加齢によって引き起こされるものではなく、新しい考えに対する不寛容と拒絶であるということを今一番に訴えることができ、その現実を変えることができるのは我々ミレニアル世代であり、Z世代ではない。
我々の後輩達のために、我々は後輩のおかれている立場を知り、彼らのために今自分ができる何かを探すべきである、という決意を新たにさせてくれる良書であった。