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【短編】マスクの女(2200字)

顔の上半分にしかファンデーションを塗らなくなってから、もうかれこれ1年が経つ。前代未聞の疫病が世界中に蔓延し感染防止のため、マスクなしでは外出できなくなったのだ。ファンデーションは減らなくなったが、その代替えとしてわたしの女としての何かが着実に減っているような気もするが、目をつぶっている。耳も塞ぎたいくらいだ。常にマスクをしているせいで、肌は荒れ放題。極度の乾燥状態で粉を吹いているくせに鼻の頭だけは油分が多い。逆に、いきなり明日からマスクがいらない世の中になったら困ってしまうくらいだった。

1年前にも増して簡単なメイクを施して、出勤のため外に出る。
行き交う人々は皆一様にマスク姿だ。
こんな情景を1年前に誰が想像できただろう。
駅へと向かう道すがら。ホームへと向かう雑踏。ディスタンスなどお構いなしのすし詰めの車内。どこを見回してもマスク、マスク、マスクの人、人、人。意識して見渡すと何とも異様だ。

これじゃあ、口裂け女が混ざっていても分からない。

唐突にそんなことを考えた。
マスク姿の人々ですし詰めの車内にいて、何となくおかしな気分になったのだ。

今の世は、口裂け女にとっては腹立たしいのかもしれない。
だって、誰もがマスクをしていて、全然目立たないんだから。

そんなことを思ううち、電車は1駅間を移動した。

いや、口裂け女は確か、整形手術に失敗した自分の醜い顔を悲観しておかしくなってしまったんじゃなかったっけ。それなら、本当は自分の裂けた口を見られたくなかったはず。
としたら、口裂け女はこの状況を喜んでいるのかな。うーん、どうだろう。

そんな風に、居もしない口裂け女のことを真剣に考えているうちに会社の最寄り駅に到着した。

私は、いつものようにランチ以外はマスクを外すことなく仕事を終え、また帰りの電車に揺られるため、歩いていた。
会社を出て、最初の十字路を左に曲がったとき、向こうからやってきた女性とぶつかりそうになる。

「あっ、ご、ごめんなさい」

思わず自分の不注意を詫びるような形で反射的にペコペコと頭を下げたが、ふと、相手の女性の様子がおかしいことに気付く。
ぶつかりそうになったことに対して怒っているのか、それとも気分でも悪いのか、女性は声を発っすることもなく立ち尽くしているのだ。
女性の醸す異様な気配に恐る恐る顔を上げてみるとそこには、それはそれは大変な美人がいた。
まず目に付いたのが、さらさらロングの黒髪だ。日没の陽に照らされて艶めいている。マスクが大きく見えるほどの小顔で、そこに大きく潤んだ瞳を持つ眼がふたつ。赤いトレンチコートが良く似合う細身の身体に、裾から伸びるすらりとした脚。
女優か、モデルかと思うほどの美人である。

「…あ、あの…」

立ち尽くす女性に何と声を掛けたらいいのかと戸惑っていたとき。

「私、きれい?」

女性がそう言った。

「え、は?」

私、きれい?
今そう言った?え、これってあれじゃん。
え、本当に?今朝あんなこと考えてたから?
もしかして、もしかして、これって。
口裂け女。

で、出たー!!

私は心の中で大絶叫した。
これは、そうだ。あれに似ている。
喜劇舞台でよくある、持ちギャグ。
そのキャラが登場するとお決まりのパターンが繰り広げられて、お客を惹きつける。来るぞ、来るぞ、来るぞ…
と期待させての、出たー!!である。

まさに今の私はそんな心境だった。

あっ、そんなことを考えている場合じゃない。
今、私は問われているのだった。
えぇと、この後はどうなるんだったっけ…。
そう、確か「きれい」って答えるんだ。

「私、きれい?」

ごちゃごちゃと考えているうちに答えるタイミングを失ってしまったと思っていたら、口裂け女(仮)の方からもう一度聞いてくれた。よかった。

「はい、きれいです!」

だって、本当にきれいなんだもん。
女の私でも惚れ惚れするほどだ。
でもー?そのマスクの下はー?

私はお決まりのパターンが出るのを今か今かと待っていた。
と、口裂け女(仮)がゆっくりと右手を左耳に掛けた。そのクロスの仕草が女性らしくて色っぽい。

「……これでも?」

口裂け女(仮)がついにマスクを外した!
来るぞ、来るぞ、来るぞ…

出たー!!

「えっ!めっちゃきれい!!」

女はやっぱり口裂け女だった。
真っ赤な口紅が、急カーブに差し掛かった電車の中で塗ったのかというほど右側にはみ出ている。その下はしっかりと裂けていて、普段は見かけない1番奥の歯まで見えている。

「え、いや。……これでも?」

今度は、口裂け女が戸惑いながら言った。

「めっちゃ、きれいですよ!」

私は力強く言った。
だって、本当にきれいなんだもん。
マスクの下はシミひとつない絹のような艶やかな肌で、触るとしっとりと吸い付きそうに見えた。すっとした鼻梁が形よくとがった鼻先へと続いている。赤く塗られたふっくらとした唇は、彼女によく似合っていて色香を漂わせている。
強いて言うなら、口がちょっと裂けているのだけが難点だった。

「…え、ほ、本当に?…私、きれい…?」

「本当にきれいですよ!スキンケア、何使ってます?」


口裂け女は、ちょっとはにかみながら、某有名化粧品メーカーのブランドを口にした。「やっぱりねー」口裂け女は、まんざらでもない様子だ。
聞けば、私と同い年だと言う。「え、ずっと地元?」「中学は?」「え、本当?一緒、一緒!!」「あれ、覚えてる?あの、英語の………」


私は、口裂け女と友だちになった。


END

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