『夢十夜』(夏目漱石)
*2022年3月朗読教室テキスト③ビギナー番外編
*著者 夏目漱石
3月がやってきます。この時期は花粉だったり、(おそらく寒暖差による)自律神経のバランスだったり、仕事の年度替りなどが影響して、通常運転がちょっと難しくなるような季節でもあります。春の花々が動き出し、あたりがうっすらピンクに染まる頃、たまった疲れとぬるくなった外気とが程よく交差し眠気が増していきます。そんな朧げな3月に、夢の物語はいかがでしょうか。
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐すわっていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭りんかくの柔やわらかな瓜実うりざね顔がおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇くちびるの色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。
「夢十夜」は明治41年7月末より朝日新聞に連載された小説で、十夜とあるとおり十篇の短編からなります。「こんな夢を見た」という書き出しで始まる第一夜は、上に抜粋したような女性とその会話や百年という時間の単位、百合の花など、映像的に美しいモチーフも登場しロマンティックな夢として描かれています。『夢十夜』というとき、すぐに思い出すのはこの第一夜という人も多いのではないでしょうか。
それに対して他の九夜は、それぞれは多種多様な物語ですがいずれも不気味さを伴い、気持ちがもぞもぞとするような不安を掻き立てます。背中におぶっている自分の子供が石地蔵のように重くなり、忘れていた自分のいつかの人殺しを思い出させる話。断崖絶壁に立ち、そこから飛び込まなければ豚の大群に舐められて死ぬという究極の選択を迫られる話。第一夜のイメージを伴い読み進めてみると、他の夜はその景色の違いに少し驚きます。ですが、それらの不気味な物語は、この第一夜が先導して不思議な繋がりをもっているような気もしてきます。
桜が咲く頃、私はよくこの「夢十夜」を思い出します。生あたたかい空気が意識のはっきりしない様へ導いてくれているような気がして、この定まらない物語がゆらゆらと揺れる春の気分にふさわしいように思うからです。
今年は春が早そうだと雪国の人が教えてくれました。初々しさも不安も包み込んだ春の訪れを、第一夜とともに味わっていただけましたら幸いです。
3月の朗読教室 スケジュール
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