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『三四郎』(夏目漱石)

 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。
 ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。
「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
 三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。
「重いこと。大理石のように見えます」(本文より)

主人公は九州から上京し東京の帝国大学に通うことになった「三四郎」で、慣れない都会に身を置きつつも、文中で語られる心の内には背伸びすることなくマイペースで、読んでいてちょっとホッとするような、時々肩透かしをくらうような気持ちが湧いてきます。
また彼には、幾人かの魅力的な人物が関わっていきます。

学友の「与次郎」は、授業が始まり最初に口を聞いた人物で、落語が好きで言動も行動も飄々としていて、田舎者の三四郎とは真逆の性格に思えますが、三四郎と会話を重ねて、三四郎と他の人物を次々に結びつけていきます。
「野々宮」は理科大学の講師で、三四郎と同郷です。三四郎曰く「穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている」人で、最初こそ変わり者のように見えていたのが、観察眼の鋭さに驚き感化されていきます。(寺田寅彦をモデルにして書かれたと言われています。)

そして「美禰子(みねこ)」は登場シーンからして妖しく、都会の女性(というよりは近代的な女性)で知性があり、最後まで捉えどころない魅力に溢れ、三四郎も読んでいるこちらも前のめりになっていきます。
(他にも幾人か、それぞれユニークな人物が登場しますが長くなるので割愛します)

今回数十年ぶりに読み返して一番感じたのは、「あれ?『三四郎』ってこんなだらだらした話なのだっけ?」でした。


主人公が列車に乗ったり学校へ行ったり、誰かと出会ったり、それぞれの場面は別れているものの、三四郎が語る心の内は常に直前の出来事から連続していて、分断することが難しいのです。読む前は「明治期の青春物語」「三四郎の成長物語」「初恋の話」など、一言二言で説明できるような気がしたのですが、実はそれらは自分がかつて感じた読後感ではなく、以前読んだ後に、さまざまなところでinputされてしまった紹介文にすぎないのかもしれない、と思いました。

今回の読書では三四郎は成長したかどうかよくわからないし、恋も成就していないし、青春!のような場面もあるやなしや・・。みんなで「菊人形を見にいく」というシーンはあるものの、爽やかさとはかけ離れています。

そして一つの場面、あるいは人物たちがシーンを移動してなお、三四郎の思考は前の場面のことを考えていたり、結論の出ないまま次のことを考えていたりするのです。このシーンで起こったことについての語り、などとはっきりした分かれ目は実はなく、常にスッキリせず、すべてが細くつながっていきます。

それが、なんというかリアルだと思いました。現実世界のわたしたちも、直前の出来事から思考をひきずり、目の前に違うものが現れても尚前のことを考え、今目の前にあることを考えることこそが自然というわけではない、と。

マインドフルネスで「今、ここ」を捉えることが難しいように、人の頭の中は常に今ではないどこかを探している、そのだらだらした感じが「三四郎」の語り口を通してじわじわと感じられます。

「だらだら」は、つまらないと紙一重であったりするのかもしれませんが、このはっきりしない捉えられなさに少し惹かれていて、一読後に「もう一度読みたい」とさえ思わされました。

6月のブンガクコースは夏目漱石の『三四郎』です。
梅雨の時期に、じっくりと味わうのに最適な漱石作品をお届けいたします。

そして、もうひとつ。
6、7、8月は漱石初期三部作を連続して読んでみます。
この夏もまた「例年より暑い」予報がありました。お出かけするのも一苦労、ならば家でゆっくり長編小説を読んでみませんか。
声に出したり黙読したり、目が疲れたら音声で聴いてみたりも。そうして2024年の夏は涼しい屋内でじっくり、長い小説に挑戦してみるのもよいかもしれません。

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