会社を利用することを決めて転職した、26歳正社員の小話。

会社に入社して、会社のために働いて、自分の心をすり減らして、体力を消耗させて、そこまでやりたい仕事って何だろう。

会社に雇われているんだから当然。
まだ若いからわかんないかもだけど……

そう言ってくる先輩もいたけれど、本当にそうなのか?
いや、違う。私は、会社に自分を売り込んでその分能力を提供しているだけに過ぎない。

単に、会社と私との契約で、契約違反があればそれは交渉した方がいい。
会社が他の会社とすることを個人と会社がしているだけだ。

つまり、会社のためだけに働くということは、「ばからしい」。
そう思って、会社を辞めた26歳の正社員の小話。

私という人間​

私は、大学4年生の頃……いや恐らくもっと前から人と違うことをしたいと思っている人間だった。

面接のためにズラリと並ぶ人を見て、仮面のような笑顔がいっぱいで、
「みんな同じ格好している。気持ち悪い。帰りたい。」そう思っていた。

だから、勝手に黒のスーツではなく、紺のスーツやストライプの入った灰色のスーツで面談に行っていた。
そんな私を受け入れてくれて、会社方針が同じベクトルを向いていると思えた50人規模の小さな会社に就職した。

理系の端くれだったが、営業職に入り、それなりに営業をした。
自分の目標を達成させようと努力していた。
ただ、「出る杭は打たれる」という言葉があるように日本らしい中小企業では、普通とは違う動きをする私を社会人にしようとボキボキと折ってくる大人が多かった。

約5年間、続けられた出会い

正直、2年目でつぶれそうな自分がいた。
ただ、負けたくない一心で、どうにか続けていた。
そんな2年目の忘年会で、他部署の上司に「趣味は何か」と聞かれて、「小説を書くことです」と言ってから、世界が変わった。

その上司は、この会社で異次元の人だった。なんでこんな会社にいるんだろうと思うほどに、有能で、新しいことに挑戦する人だった。

俺さ、社内の公式ブログを提案しようと思っているんだけど、書くの好きじゃないから、一緒にやらない?

世界がぱっと広がったようだった。
目の前の何気ない景色がキラキラと光った気がした。何なら、金色のビールが本当に金でできているんじゃないかと思うようだった。

「やりたいです! やらせてください!」

そう言って、一緒に広報業務を開始した。
営業部の上司には、営業には支障をきたさないことを条件に許可を得た。
私たちの活動を経営陣は理解していなかったし、それ以上にほかの部内の人たちも理解していなかった。

ただ、私たちはこれが意味のある行動だとわかっていたし、この業界では絶対に必要になると思っていた。

そして、私たちとともに動いてくれている仲間たちさえいればいいと、信頼している少人数の仲間のことだけ考えていた。

そして、その行動は花開き始めた。

そんな矢先、私が信頼する上司に経営陣がかみついて、上司が一瞬でやめてしまった。
優秀な人は、見切りをつけるのも早かった。

「こんな会社、20代のうちに長居しない方がいい」と言い残して、いなくなってしまった。

ただ、まだこの場所でやりたいことがあった私はその背を送り出しながら、残ることを決めた。

消えた上司と崩壊していく心

そんな私もいつしか会社によって、打たれて打たれて、いつの間にか「普通の人」になっていた。

経営陣に歯向かうこともなく、ただ消えた上司の言葉だけが耳にずっと残っていた。

上司が辞めた頃から、平社員のままリーダーをいくつかのプロジェクトで任され始めて、40代や30代のオジサンたちをまとめる仕事や、営業、広報の仕事をする毎日になったいた。

出社時間:7時30分
営業職 :~18時
広報・プロジェクト:18時~24時

ドラマや漫画で見たことのあるような「起きている間はすべて仕事」状態。
化粧を落とさず寝ると次の日に応えるから、死んでも化粧は落とすと玄関に化粧落としを置いておく日々が続いた。

たまに朝起きた時・会社に行く時・営業をしている時に左目からだけ涙があふれるようになった。

ただ、そんなときに、「コロナウイルス」が流行し始めて一気に世界が変わった。多くの人に悪い影響をもたらしているウイルスではあるが、このウイルスのおかげで、私の個性が再起動した。

私の世界を変えた「コロナウイルス」

経営陣との会議も増えていた頃、コロナウイルスの影響が現れ始めた。
経営陣は話を進めることなく、もしも話で責任の押し付け合い。
どのような方針に転換するのかということがないまま、自宅待機を命じ、それでも「売り上げは落とすな」という面白いことを言った。

私はその時、前々から目をつけていた「オンラインセミナーに方向転換」することを決めて、すぐにオンラインセミナーを計画し始めた。

経営陣をうまく丸め込み、オンラインセミナーを実施していくことになった。営業部も経営陣も20代はほぼいない。機械に疎い人たちも多く、都道府県ごとの開催はできないのか。お金を取るべきではないかというような意見が出てきて、内部を説得する方に時間を要した。

お客様に情報を届ける以前の作業で疲弊していた。
経営陣は文句や責任逃れのための言葉しか吐かない。
みんなどこに向かっていいのかわからない、コロナの暗い闇の中にいるのに、光を照らさず、自分たちだけ安全なところにいる経営陣に苛立ち始めた。

そんな中で、私のオンラインセミナーは成功した。

成功と責任との狭間で

少し喧嘩を売るような形でオンラインセミナーを始めてしまったため、自分のチームを守るにも必ず、成功させる必要があった。

そこでここ何年も使っていなかった頭をフル回転させて、1000名規模のオンラインセミナーを企画して、周知期間3週間で達成させた。

経営陣には企画段階ではボロクソに言われたが、「今」を大事にしたオンラインセミナーはやはり顧客になりえる人々の興味を引けたようだった。

そして、2回目、3回目と大規模セミナーを前例なしで成功させた。
営業部部長には「フォローアップの徹底」を図るよう促しながら、次の企画と自分の営業先のフォローとチームのことで手一杯になっていた。

営業部長を見ると、声を聴くと、無意味な笑い声が耳に入ると、左目から涙が止まらなくなった。

「ああ、ここにはいられない」そう思うとともに、「20代をここで使い切るな」という上司の声が聞こえた。

そして、2020年8月。私は転職を決意した。

あっという間の転職

転職はほとんど方向が決まっていた。
やりたいことをやろうと思っていた。理系の大学をでて、金銭の問題で大学院に進めなかったこと・ベクトルの異なる会社に属するのが嫌なことの2つから、技術派遣の会社の正社員となり、1カ月もたたないうちに内定した。

そして、仲間にも言わないまま、個人的には最後を予定しているオンラインセミナーの実施をし、仲間に明日退職届を出すことを言った。

その翌日、退職届を部長に提出した。「退職願」ではないことにチクチク文句を言われながら、「マナー無いんで(笑)」と言って流した。

社長、取締役、部長に囲まれながら、話をした。
やっと解放されることが嬉しくて、何を言われても流していた。

引き継ぎ業務が終わり、最終出勤日になるとさすがに信頼していた仲間と別れるのは寂しかった。ただ、そういう仲間は「最後にならない」と思えたので、不思議と平気だった。

すべてを返し終えて、挨拶を済ませ会社から出た空は、「どんよりと鈍い色をした曇り空」だったのに、上司に広報を誘われた時のように「キラキラと輝いた世界」で心なしか「澄み切った空気」のように感じた。

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