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『最高の図書館』6


真凛は勉強机に向かい、ノートと教科書を開いていた。勉強を邪魔しないように、静かに二段ベッドの上に行く。部屋には勉強机が二脚あったのだけれど、片方はあまり活用されていない。試験期間中でもなければ、真面目に勉強などすることもない。
ベッドに凭れるように坐る。家ではいつもぼうっとしていることが多かった。僕にとっての家とは勉強をして、食事をして、寝るだけの場所だったのだ。自室にはテレビも置かれていない。真凛などは随分と欲しがっていたような気もするが、真面目な姉の頼みが断られた以上は、弟がそれを請うても、望みは薄かったことだろう。
両親は随分と厳しかった。最低でも高校生の僕にはとても厳しく感じられた。具体的な説明は難しいけれど、家の中は風通しも悪かった。不仲というわけではないのだろうが、父と母が楽しげに会話している様子もなかった。元来、そういう気性の人たちなのだと納得していたが、一般的に娯楽と呼ばれるものは、この家では悉(ことごと)くが排斥されているようであり、それを理解したのは自分が集団に含まれるようになって暫くのことだった。
人にとっての最初の社会。学校が始まってからのこと。これが面白いだとか、あれが面白いなんていうのは理解の埒外(らちがい)だった。最初に抱いたのは好奇心ではなく、間違いなく焦燥感だったように思う。つまりは好奇心の裏返しに他ならない、知らないことへの恐れだった。幼き恐れを解消するためには好奇心の芽が必要だったが、僕は塞ぎ込んでしまった。結果として、構造の理解を得るのに途方もない時間が掛かってしまう。
上段からは真凛の背中が見えた。シャツの上からは淡い水色のカーディガンを羽織っている。セミロングの髪は赤みがかっていたが、染めているわけではなく、地毛である。姉弟とは言っても似通ったところはあまりない、と思う。自分の髪は地黒なので、そこは違う。認めたくないことだが、僕は真凛に較べて背も低い。高校生にもなってこれだけ歴然とした差がある以上は、追い越すことは一生ないだろうと諦めてもいた。
「ねえ」
「うん?」
ノートに顔を落としたまま、真凛は返事をする。シャーペンを持った手は常に動いていた。
「順調?」
「まあね」過剰なまでに得意気な口調が返事を寄越した。
「進路は絞れた?」
「この時期で決まってないならやばいよ。どうして?」
どうして、と聞かれると困る自分がいる。適当な言い訳を考える。
「もし遠い大学に行くなら独り暮らしするでしょ? だったら、来年からここが自分だけの部屋になる」
部屋はそれなりに広かったが、二人には狭い。小さいころはまだしも、成長していくと如実に制約を受けるようになった。マンション住まいでは捻出できる部屋にも限りがある。前までは本当に共同の部屋が嫌だったけれど、今はあまり気にしていない。
「ふーん、出て行って欲しいみたいな言い種じゃない」真凛はそう言って笑った。
「参考までに聞いてるだけだから」
「じゃあ、朗報だね。東京の大学に行くつもり。まだ判らないけど」
「へえ」東京という単語は俗っぽく、認識から遠い場所にも思えた。
「もう少し、悲しそうにすればいいのに」
「悲しいよ。困ることも多いし」
「たとえば?」
「広くなった部屋になにを置こうかなとか」
「やっぱり喜んでるんじゃない!」
真凛はけらけら笑うと、ノートに向かう手を止める。徐(おもむろ)にこちらを振り向くと、寂しそうな笑顔を寄越した。
「楽しみと不安が綯い交ぜになったような不思議な気分。きっと悪くはないと思うけど、思ったよりも良くはないんだろうなと」
「物事にはいい面と悪い面があるみたいだから」
慰めのつもりだったのかもしれない。あるいは自分のための。
「それらを纏めた全体で評価すべきなのに、どうにも極端になるみたい。一時的な憂鬱がアンニュイなんだよねえ」
物事はなるようにしかならない。結局は自分も真凛も運命の虜囚ということだ.。憂鬱は風化して、新鮮な感傷もやがては錆びていく。待ち望んだものは日常となり、暖かな陽射しも肌寒い夜気に変じる。
「日本語が不安定だ」
「実際、不安定だよ」なにがとは言わなかった。
視線を切るようにベッドへ横になる。安定を崩すものなど滅多にないはずなのに、現実はいつも不穏な予感と隣り合わせだった。危うい均衡がどう傾くかも想像が付かない。時々、日常を生きていることが不思議に思えるのは、不条理だけど自然な世界の確率に違いない。何千回も道路を渡れば一度ぐらいは車に轢かれて、半分の可能性で死ぬ気がいつもしている。
「他の人はすべて上手くやっている気がするんだ。私がどんな人かなんて、私でさえよく知らない。自分を無意識に弁護して、他人ではなく自分に弁証する。どうしてそんな無駄な思考をするんだろう。誰におもねるための思索?」
真凛の表情は見えなかった。見えないようにした。それぞれが独り言みたいに喋った。
「誰もがそう考えているような気もする」
「真夜もそうなの?」
それは純粋な問い掛けのようだった。
「どうだろう」
「仮に全員がそうだとしたらさ」
「うん」
「いつ破綻してもおかしくないと思わない?」
「最後の一線を守っているのはなんだろう」
考えるような間があって、顔の見えない相手が呟く。
「期待じゃない?」
「なんだか、それっぽいね」
「でしょ」
ノートに文字の走る音がくすぐったく聞こえて、意味深な話しはそこで終わった。

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