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『最高の図書館』5

一九時四五分。閉館十五分前のアナウンスが館内のスピーカーから流れてくる。没頭していた意識が戻り、視野の焦点が分散していく。どれくらい読み進めたのだろうかと手を止めてみれば、ちょうど、一〇八頁に差し掛かるころだった。大きく息を吐く。
「閉館だ」
声のほうを振り返ると、川上さんが書架に本を並べている。顔は書架に向けたまま、口と手だけが淡々と動いていた。
「判ってますよ。帰ります」アナウンスの瞬間を狙ったかのように喋り掛けるものだから、自然と次いでの文句を警戒する。
「生活に本の必要な人間だから、読書を軽視するのは不思議なんだ」
「世間がってことですか」警戒しながらも正直に答えた。
瞳がこちらを向く。不満を湛(たた)えた目が僕を捉えた。もっとも、そのように見えただけかもしれない。緊張が解釈をネガティブにしている自覚はあったからだ。
「また明日続きを読むのか?」
我知らず、川上さんから隠すように身体の陰に破戒を置く。相変わらず、質問の意図が掴めなかった。
「……もうすぐ閉館ですから」
「図書の閲覧だけではなく、貸出も行っているが?」
「貸出受付は一九時半で閉じるし……家で本も読みませんから」
冷たく無感情な声音はなんだか莫迦にされているように思えて、つい言い返してしまう。
「――知ってるよ」
抑えた声は少女の囁きのように抑揚を取り戻していた。川上さんを知っている人ほど、言葉の出所を疑っただろう。本当に一瞬だけ別人のように優しく笑って、次の瞬間には表情を打ち捨ててしまったかのように無表情を張り付けている。
失念していたがもう遅い。身から出た言葉を捕まえることはできないのだ。
「真夜はここでしか本を読まなかった」
表情もないのに、声だけは冷たくも優しい調子だった。制服を着た少女の幻影が瞼の裏にちらつく。もうずっと昔のことだ。
「はい」
「私が読んだ本は無条件に読みたがった。悪い気分はしないけれど、真夜に読ませる前提で本を選んでいたから困るときもあったな」
川上さんは昔の声音が効果的なことを知っている。否応もなく、川上さんに懐いていた少年時代が思い出されて、そうすると一切の抵抗を諦めるしかなく、過去の自分を無条件に恨みたくもなった。
「部活動もやっておらず、読む時間も減っていない。なら、どこで読んでいる」
意図は明確な質問となって形を取る。川上さんがまだ学生の時分である。彼女は三郷分館の利用者として、この図書館に足繁く訪れていた。僕が小学生のときだ。そのころからの面識でもあり、少年の僕も頻繁に図書館には出入りしていた。
今と変わらず、外で遊ぶ友達などいなかった。同級生と気性が合わず、運動も不得意だったからか、間を置かず学校では浮いた存在となった。友達という関係を諦めていた節もある。今でこそ幼少期の判断を支持するが、当時は友達のいない自分を卑下し、苦難ばかりの人生に於ける深刻な悩みの一つとして、小さな身体に大きく立ちはだかっていた。
畢竟(ひっきょう)、図書館内で関係は築かれていく。姫野さんは昔から司書であったし、川上さんは学生服を着ているころから書痴であった。現在に較べれば、川上さんの喋り方はもっと違う印象を受けたけれど、子供の自分には随分と大人びていた。昔はなんとなく声色が丸く、抑揚に富んでいた気がする。今では緩急のない、冷たい声だ。言い換えれば下手な朗読のようで、比喩として適切でない部分があるとすれば、川上さんの朗読は驚くほどに達者である。
「書店に行ってます」
「本を購(あがな)っているのか」
自身が明らかに動揺しているのはなぜなのか。書店に行っているのは本当なのだけれど、理由を聞かれると困った。正直になることはできない。僕が僕であるためには、他人の侵犯を許してはいけなかった。彼女の存在は既に領域に入っていて、触れられるのは堪え難いことなのだ。
「新しい本はずっと予約が入ってるから」本当の理由を言わずにごまかす。
「そうか。遅番に戻ったのは最近だから気になってね」
「どういうことですか?」
「前は来るのが早かっただろう。急に来なくなったと思えば、姫野さんが夕方には来館するというじゃないか。時間的に会うこともない。理由を考えてみたが、思い当たる節もない。もしくは私を避けているのかと」
怪しい嘘でも、信じてもらえたようだ。一旦は安堵したが、展開は不穏だった。確かに三郷分館に来ても川上さんはいないことが多かった。他の司書に関しても見掛ける回数は減っていて、常にいるのは姫野さんぐらいだ。
「まさか、もっと物理的な問題です」
「それも知ってる。現にこうして来ている。思っただけだ。考えたんだよ」
「……はあ」顔に相応(ふさわ)しく、難しいことを言う。
「家では本を読まないんだろ?」
「読まないというか……まあ、気は進まないかな」
必然的に両親の顔が頭には浮かぶ。浮かぶ彼らの顔はなぜかいつも険しかった。真凛(まりん)にではなく、僕に対して向けられた表情だ。年端も行かぬ子供のころから見慣れていた。
川上さんは本の整理を中断すると、隣に坐った。姿勢を前に左手で膝に頬杖を突くと、顔をこちらに向ける。髪が短くなった以外には、学生時代となにも変わらないように見えた。川上さんが隣にいると、小学生の時分をまざまざと思い出すようで、一層に気恥ずかしかった。心情を悟られては人生最大の失策となるので、平静を装い見返すしかない。
「いつからか……前からだったか」
「はい、前からです」
川上さんの前が、いつを指すのかも判らないけれど頷いておく。何年前であろうと嘘にはならない。川上さんは大して懐かしくもないような顔で、声だけは郷愁の色を伴い、吐き出す息が憂いを帯びていた。
「ここで小説を読むのは平気?」
「だって、図書館は本を読むところだから」
「確かに図書館は読書を保障する場所だ。だが、私はよく判らないんだ。じゃあ、家とはなんだってね。本は一人の読者に還る。個人に属するんだ。場所に属するものじゃない。個人が範疇とするものに付いていくだけだ」
「――難しいです」
頭は全然回らなかった。川上さんはクールな人だけれど、口数は多い。
「そう? 図書館じゃなくても本は読めるって話しだよ。読めないのは二重思考(ダブルシンク)に覆われているから。書物を精神の防壁に使う人間もいるが、純粋性を重んじる精神にとって、書物は心臓に繋がる血管に近い。すべて血と糧にするが、生身の肉体は恐れている。与えられるものを嫌い、異物を受け付けない。人である限りは仮面が必要であり、本来は恥じ入ることでもないはずなのにな」
遠大な比喩と装飾は、世俗の目を欺くための技法なのだろうか。最低でも、僕の視界からは霞み始めている。得意気な様子も見せず、川上さんは理解を待たずに話し続ける。
「書物に精神を転移する人間は、自分と書物を結び付ける目から逃げ続ける必要がある。隠匿するか、さもなくば戦うかだ。戦いにも種類がある。私たちはなにと戦っている。大仰な偽装が必要な何者か? 滑稽で狡猾な狡智に長けた暴露主義の怪物? 敵の名前はなんだ。君にとっての名前は?」
川上さんの問答には試練のような気配があった。偽装の最奥から真意を汲むことが求められている。義務でもないのに忠実なのは、僕らの存在が過去に亘っても鏡合わせだからだ。正体不明の理性が強烈に正体を求めるというふうに、過去を引き合いに出して脅迫するのだ。
「……ルサンチマン」
ずっと前に読んだニーチェの本にそんな名称を見た気がする。川上さんは頷いた。表情が揺れることはない。
「君は頭がいい――あるいはそう、ルサンチマン。私は別の呼び方をしている。たとえば、そう……奴隷の眼差し」
「奴隷……?」
「自らが隷従すべき精神に支配された奴隷だよ。解放を伴わない歪な禁欲主義の成れの果てもそうなる。反動としての衝動を行動できない不自由な精神」
強い言葉だった。同じ認識を持つ人間じゃないと、安易な誤解を生むことだろう。いや、最初から誤解を恐れていないのだ。
「戦う方法は?」
「損なうものによる。自分を守りたいなら、書物を楯(たて)にすればいい。明け透けな敵に晒し、不明の論証を切り売りするように戦うんだ。見せびらかしてひけらかして、わざと高慢な態度で睥睨(へいげい)する。しかし、それは個人の意識でしかできない。なぜなら図書館は解放されている。書物を持って戦うということは、相手のいる地表にまで書物を引き下げるということだ。書物を楯に戦うということは相手の理解できるレベルにまで落ちるということなんだ。本は時に理解を拒むものでもある。戦い方がもう一つ」
川上さんは人差し指で一を示す。
「もう一つ?」
「自らが相手のレベルに落ちていくことだ。深い痛手を負いながらも、彼らが傷を付けるのと同じ手段を私たちも用いる。同一の方法を採るには、様々なものを失っていかなければならない。屈辱的なものには屈辱的に。暴力的には暴力的。反復は効果的には違いない。残念なのは刺し違えても割りに合わない成果だということ」
「川上さんはどうするの?」
今頃になって、なんとなく理解が進んだように思う。奴隷なんていなくなった時代に蔓延する、精神上の奴隷の話しを川上さんはしている。自我を掌中に保ち続けるには、自身の肉体に関する些事でさえ意識的な働き掛けが必要なのだ。何年も何十年も人は考え続けることでしか推移しない。成長なんてものはなく。停滞するか移動するかだ。
「私は後者だよ、もちろん」
予想していた答えだった。書物を守る図書館司書としての戦い方ということだろう。あくまで堂々と、相手に理解を強制させない。目には目を、歯には歯をだ。相互の理解とは、どちらかが相手の目線に合わせることを指す言葉だった。上位の理解は子供を相手するように屈み、下位の理解は精一杯の背伸びをする。
だが、敵というのも漠然としすぎていたし、元々がなんの話しだったのかさえ、既に忘れてしまっていた。結局、言いたいことの半分も理解できたとは思えない。
「要約するのはもったいないけど、しないと全体が判らないこともありますよ」
「判らない?」
川上さんは世間話でもするように軽い声だった。ここまで来ると新鮮な感じがする。
「判ったような気には」
「要約するのは苦手だけど、どう戦いたいかってことだよ。きっと……そういう話し」
なんだからしくないような曖昧な言葉だ。攪乱された心情は困惑の色を深めるばかりである。そして、導かれた結論という可能性を考えた。
「戦いたくないかな」無闇に抵抗しても疲れるだけだから。
「本を読むのが好き」
囁くような声だった。存在しない臓器がくすぐられるような感覚に陥る。たとえ策略だとしても、川上さんに担がれるなら悪くない。
「図書館なら好きなだけ本が読める」川上さんは言う。
「だから、図書館が好き?」
「いいや、自由に好きなことができるなら、図書館は家みたいなものさ。あくまで本が好きなんだ」
「家と定義する必要がある?」
余計な言葉ばかりが口を吐いて出るのは、自分の嫌な性癖と言える。相手の反応が乏しいと嫌みで終わってしまう。しかし、真剣に話しを聞こうとすると、明示されるべき条件は肥大化するものであり、仕方がないと思える。
「必要はないだろう。ただ、家に帰って本を読む。その響きに安らぎを覚え、愛おしく思う」
川上さんと喋るのは落ち着かなかった。どうにも調子が狂ってしまう。いつもこうというわけではないからなおさらだ。いかに平静を装い、普通に会話を行うかに苦心していた。
「意外と情緒的なことを言いますね」
「――知らなかったのか?」
川上さんはソファから立つと、素早く顔を背けた。閉館時間が迫っている。こんなに長く喋ったのも久し振りだという気がする。
「また帰ったら続きを読めばいい」
川上さんはそんな言葉を残して、受付のほうに戻っていく。声は平素の冷たいものに戻っていた。
言葉の意味を暫く考える。得心のいかないことは数え切れないほどにあったが、もしかしたら、僕は川上さんに慰められたのだろうか? 新たな困惑の種に戸惑い、だとしたら一層に不可解な仮説を抱えながら、帰ろうと思い、なんとなく川上さんの整理していた書架に目を遣った。書架には他の小説と共に『華氏451度』が並んでいる。川上さんは自分が読んでいた本を棚に戻していただけだった。
姫野さんに、読み掛けの『破戒』を預け、僕は家に帰ることにした。

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