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自傷について話した日のこと

注意:自傷表現あり

私の腕には白く膨らんだ跡が何本もある。
明るいところに腕をかざせば、目立つ傷跡から細かい傷跡まで、数多の線が描かれているのが見える。バーコードみたいだ。

ちゃんと数えたら傷跡は3桁超えるのだろうか。

…超えるだろうな、きっと。

私にとってメンタルというのものは、ゆるりゆるりと変化するものでは無いようだ。我慢していたものがある日ぶちっと音を立てて切れてしまって、行動に歯止めが効かなくなる。そういうもんだ。

それまでは1回につき、数本だけカッターで傷をつけていた。それが突如我慢が効かなくなったあの日、一気に20本ぐらいは切ったんじゃないだろうか。

それを何ヶ月も何年も続けていたら、そりゃ、3桁超えるわな。




「何で切っちゃうんだろうね?」
「切った時どういう気持ちだったの?」

これは何回も聞かれた。学校の先生とか、福祉の人とか。

その度に、それらしい理由を考えて、説明してみるんだけど、なんだか自分でも納得いかないのだ。というか、切る理由が分かってたらこんな困ってませんて。そもそも切る必要ないですって。


だが、少なくとも1つ言えることが。

私は、自分の腕にある傷に、愛着がある。普段周りに見せている姿が偽りの姿だとしたら、リスカしている自分が真の姿という感じだろうか?

変な感じ。だけど、これが本心なのだ。




初めて大学でカウンセリングを受けた日のことだ。

目の前の心理士さんは、とてもハキハキと喋る方で、私はちょっと緊張していた。そして、恐怖と希望の間で揺れていた。この人は否定してくるかも、攻撃してくるかも…だけど、信じたい、甘えたい。

この人がどういう人なのかを、私は計りかねていた。

試すような気持ちで、ぱっくりと開いた傷を見せた。この人はどういう反応をするのだろうと思って(今考えると失礼のオンパレードである)。

「…その傷、自分でやったの?」

「はい」

「そうか、早く、治ると良いね」

その言葉を聞いた瞬間、何かの感情がぐるぐると渦巻いて息苦しくなった。どのような感情なのかは自分でもよくわからなかった。だけど「早く治ってほしい」という言葉が私にとっては苦しいものであることだけは、感じていた。

そんなことを目の前のこの人に言ったらどうなるだろうか、否定されるだろうか、肯定されるだろうか。肯定はされないだろう。じゃあこのまま黙って「はい、ありがとうございます」で終わらせるか?

…違う。

それは私の望んでいる事ではない。否定されようが何だろうが、伝えなければと思った。

「…先生」

「うん?」

「…わたしは…この傷が…無くなってしまうのが、寂しいです」

言ってしまった。もうあとは野となれ山となれ、というようなヤケクソな気分であった。

しばらくの沈黙があった。心理士さんが私の発言に共感できていないことは痛いほど分かった。彼女は私に向かって静かにこう言った。

「そうか、そうなんだね」

「…はい」

体の力がふっと抜けた気がした。気づいたら顔は涙でぐしゃぐしゃだった。彼女は私の感情を理解できてはいないだろう。「傷が治ってほしくない」に対して「わかるー」と言われたら、言った本人ながら私もきっとビビる。しかし「そうなんだね」という言葉が、全てを包み込んでくれた気がした。私はあなたの感情を受け止めました、というメッセージのようであった。

理解はできずとも、否定をしない。

彼女の信念をそこに見た気がした。

心に傷を負った人間の思考というものは、一般には理解不能なのだろう。少なくとも私の周りではそうらしい。そもそも、私も、メンタルボロボロの友人と話していても、「この人と私って価値観違うな?」と思うことが多い。

でも別に、理解してほしいわけじゃない。否定されない場所が欲しいだけだ。

特別な言葉は要らない。きっと「そっか」という一言だけでも「私はあなたの味方である。あなたはここに存在していて良い人なのだ」というメッセージを伝えることができるのだろう。



「そうか、そうなんだね」

たった一言なのだけれど、ずっと忘れられない、優しい言葉だった。

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