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今思えば、20代は自信のなさとの戦いだった気がする

あと3ヶ月で、20代が終わる。
20代が終わるからと言って何かが変わるかと言ったら対して思いつかないが、ある一定の節目としての役割は有しているように感じる。個人的には心臓が30年も動いていることにとても感謝したい気持ちだ。

思い返してみると20代は自信のなさとの戦いだった。自分は高校入学までは勉強ができる人間だと思っていたが、進学校に入学すると周りは頭がいい人だらけで、自分の中の個性がなくなったように感じた。そこから自分がとても真っ白で何も持たない人間だと感じ始め、自信がなくなってしまったのを覚えている。

自信のなさは大学生の頃では特に目立たなかったが、自分が何も出来ないまま社会に出ることには恐怖を覚えていた。せめて一つ自分の中で核を作ろうと思って始めたのが研究活動で、大学院進学だった。大学院に進学するときは、迷わず博士まで行く前提でいた。普通の人は、博士進学に相当な葛藤があるみたいだが、僕自身割とすんなり決めれたのは、この核の形成が博士号を取ることによって埋まる事を期待したからかも知れない。

しかしながら自信がない研究活動は困難を極めた。指導教官と対等にディスカッションすることが出来ずいつも負けてしまう。結局、博士が取らずに満期退学を選択する。

当初、博士号=自分の核として考えていたが、それはきっと間違っていることに気づき始めていた。博士号を持っている事を思い出す度に自分が律される事を期待していたが、どうやら周囲の大多数の人間は博士号にそこまでの価値を感じていないようだし、周りの人にとってどうでも良いことに、自分の自信の拠り所にして良いのだろうかと迷った。客観的に見れば結構独りよがりになってるように見えるのではないか?
そんなことで博士を辞めはしたもの最近は自信のなさはだいぶ和らいでいるのを感じている。どうしてこのような心境の変化があったのか考察してみると、「気にした所で、憂鬱な気持ちになるだけで損」な事に最近ようやく気づけたようで、一種の諦めが去来している。歳を取ったおかげで幾分か視野も広くなった気がする。諦めと客観が私を救っているようだ。私は自身の変化を比較的ポジティブに受け止めることした。あれだけ悩んだ期間はなんだったのか。自分の足りなさに嘆く日々は報われたのだろうか、と自問自答する事は最近あまりなくなった。

あらゆる事に対して結果が存在するだけで、選択した事に対して何かしらアウトプットが生まれる。選択が人を形成していく。選択した後は因果の流れに沿って泳いでいくだけである。
選択しようとするには発想が必要になるようである。まず多くの選択肢が頭の中にあるか。苦しい人や辛い状況の人は目先の選択に囚われがちだ。だからストレスはいけない。視点は常に遠くにないと、真っ直ぐ歩けない。

これからまた同じ時間を過ごすともう還暦を迎える。だんだんと色んな気持ちが落ち着いて、振幅が抑えられ、平衡状態に近づいていく。生物は非対称性がなくなると死んでいく。非対称はストレスのかかる行為だから、少しずつ崩壊に向かって歩みをすすめている。

10年後、20年後自分はどこまで諦めているのか。大人になるにつれて楽になっていくから良かった。逆だったらきっと耐えられなかった。自分には楽が本当に向いてる。


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