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「心疾患」という身体ガチャを持ちながら、私は目一杯生き切りたい

誰しも、見た目にはわからない身体のいろんな事情というのがあると思う。
乗り物酔いしやすいとか、胃腸が弱いとか、頭痛持ちだとか、他にもいろいろ。
もちろん身体への様々なケアでそれらが改善することはたくさんあるけれど、しばしば体質や遺伝として片付けられるもの。やれやれ全くしょうがないなあ、と付き合っているもの。
私にとってはそのひとつが、生まれつきの心臓の疾患だ。

いや、それとこれとは質が違うだろ、とツッコむ人が多いと思う。生まれつきの心疾患なんて、食や生活リズムを見直し、根気よく体質改善に取り組めば治る類のものではないし、「心臓」と聞くと一気にその症状ひとつひとつが「生きるか死ぬか」のフェーズのもののようにもイメージできるから。実際にそういう例も多数あるから。

でも、私にとっては「意外とそんなもん」なのだ。言うならば、この世に生まれるにあたって、身体ガチャをぐるぐると回してみたら、出てきたカプセルに「心臓の部品不良」と書かれていて、それを握っているくらいの感覚。

別に誰のせいでもない。ガチャ大外れとレッテルを貼られたわけでもない。カプセルが握り切れないくらい大きいわけでも、見たことのない色でめちゃくちゃ目立つわけでもない。なんなら、自分で言わない限り、握っていることを誰かに知られることはない。

でも、ずっと握ってきた。そして、人生の節目節目で、カプセルを握ったことがない人たちから、その重さを訥々と諭されてきた。これは爆弾にもなるんだよ、と。握っていることを自覚しなさい、と。

爆弾に負けない、とは言わない。なかったことにもしない。ただ、このカプセルを、時に爆弾だと言われるこのカプセルを、私の人生の足枷なんかにしない。言うならば、いいも悪いも別とした、命の1ピースなのだ。
「心臓の部品不良」のガチャの副産物は、当たり前の日常への感謝とか、もちろんそういう面もあるけれど、一番は、いろいろなことを諦めないという負けん気と、生きることへの執着だった。

幼少期の話

きっかけは、3歳児検診だったという。心雑音があります、というよくある所見が出て、近くの大病院で検査をした結果、大動脈の逆流を防止する弁の形に欠陥があり、その機能が不完全であるために、全身に送ったはずの血液が少し逆流している状態だとわかった。
でも、特段すぐに手術等が必要というわけではなく、半年から1年に一度の経過観察が続いた。
激しい運動を長時間続けることは避けてください、と言われていたそうだけれど、何も気にせず遊んでいたし、学校に通うようになってからは体育の授業もすべて受けていた。冬場の長距離走も、高学年になるまでは多分参加していた。
小学5年生にあがる春休み、カテーテル検査を受けるために、初めて5日間入院をした。足の付け根から細い管を入れて心臓を造影し、それで初めて見た自分の心臓は、言われるように見事に一部逆流していて、あーなるほど、と納得した。部分麻酔のために足の付け根に打たれた注射がめちゃくちゃ痛かった。
そして、そのとき病室で向かいのベッドに入っていた女の子が、私より明らかに小柄でとっても細いのに年齢は3つ上で、体育はすべて見学している、と聞いて小さな衝撃を受けた。そうか、いろんな子がいるんだな、人によって具合も生活の制限も違うんだな、と当たり前のことを初めて実感した。

思春期のこと

小学校高学年から何となく長距離走だけ見学になった。自分の疾患についての理解も随分と深まっていた。
疾患について誰かに何か言われることは基本的にはなく、ただ一度だけ、何かの折に不機嫌な友人から「あんたは心臓のことを言い訳にして、バスケとかはやるのに長距離走はやらないってしている。今のままじゃダメだよ。」という手紙を寄越してきて、「?????」となった。長距離走は見学しよう、と主治医に言われたためにそうしているだけなのだけれど…そうか、そんな風に見られるのか、と新しい発見で、悲しいとか傷つくとかはなかった。
心臓の状態はずっとあまり変わっていなくて、中~重程度の逆流だった。女の子だからね、いつか妊娠・出産の可能性があるでしょ、その前には手術を受けるのをおすすめするよ。と毎年言われて、どこかで手術するんだろうなあ、とぼんやりと思っていた。手術したら子どもを産めるんだろう。子どもはずっと欲しかった。遠い未来のことながら、その選択肢は死守したいと思っていた。


社会人になって、手術した話

年齢を重ねて、私は徐々に自分の疾患のことをかなりライトなテンションで誰にでも話すようになった。スポーツにさほど興味がなかったこともあり、疾患によって何かを諦めた記憶はほぼなかった。元カレ…と呼ぶにはあまりにも早く私がシャッターを下ろした相手にすら話していた。そしてそのとき、手紙を寄越した昔の友人然り、自分の認識と他人の印象はしばしば全く違うものらしい、と強く学んだ。
「それってご家族しか知らない話?」(いや、私の周りの人は大体知っている。機密性は低い。)
「俺はそれを聞いて、引くとかは全然なくて、もっと一緒にいたいって思ったよ!話してくれてありがとう!」(ごめん。あなただから言った話、とかそういうテンションじゃない。)
「よく気にせずにいられるよね。俺だったらとっくの昔にもっともっと人生に対して絶望してる!」(そ、そうなの?あなたのその病気、人生に絶望するレベルよってこと?)

私にとってはまあまあ衝撃的なやり取りで、これまた新しい発見だった。自分は世間話の延長くらいのテンションだったとしても、どうやら話す相手を選ばなければならないらしい。
一番衝撃だったのは最後の発言で、言われて改めて考えたけれど、この疾患を持っていることで人生に絶望した記憶は、やっぱりない。ガチャで引き当てたカプセルを握らない人生を知らないからだろうか。爆発した時の重大性を実感していないからだろうか。もし、子どもを産むのは難しい、と言われたら…絶望するのかな。でもそんなこと、他人に決められたくないな。

その後縁あって出会った相手とお付き合いを始め、結婚を意識するようになった。もし無事に結婚出来たら地元から遠く離れることもわかっていた。ずっとお世話になっている大きな病院の近くに住めるうちに、手術しておこう。自分から手術の希望を伝えた。手術は昔から想定されていたことだったから、特段嫌だとか、怖いとかも思わなかった(むしろ真っ当な理由で休職できるのが嬉しかった)。病院側もそろそろ、と思っていたようで、言ったその日に手術の段取りの説明を受けた。
秋ごろに1週間検査入院をして、以前受けたカテーテル検査をもう一度行う。その結果を見て外科と相談して手術の内容を決める。手術は冬ごろに予定された。

検査の結果、私の心臓は思ったよりずっと無理をしていたらしい。外科の先生は第一声「これは手術せなあかんなあ」と言った。当初予定されていた大動脈弁の置換だけでなく、大動脈と心臓の接続部分から、弓部大動脈と呼ばれるちょうど傘の柄のようにカーブを描いて背中側につながるその部分まで、人工血管に替えましょうと言われた。私の疾患は大動脈弁という部品不良に留まらなかったらしい。血管の組織が脆く解離しやすいという点がわかり、それは大動脈解離という、命を落とす危険性もある病気になりやすいですよ、という宣告だった。

ガチャで引き当てたカプセルは、やっぱり時に爆弾になり得る。でも、爆発する前に、その中身がどんなものなのか知ることができたのだ。疾患が追加された絶望なんてものはなく、自分の身体をよりよく知れてよかったと思った。知って対策すれば、きっと今後の人生のリスクヘッジになるから。

平成最後の大寒波が日本中を襲った冬に、手術を受けた。思ったより大規模で、14時間にも及んだらしい。痛みもさることながら、身体が動かせなかったり息苦しかったり急に心臓がドシンバタンと暴れるのを感じたり、とにかくいろんな不快があった。でも、死ぬかも、とは思わなかった。いつか元気になる。退院して、もとの気ままな暮らしができる。

一方で、それは自分にとっての当たり前で、人によってはそれがままならないのだということもよくわかった。病棟には同じように生まれつきの心疾患を持つ若い人たちがいて、定期的に入退院を繰り返すから仕事ができないとか、高校に通えていないとか、人生の半分以上は入院だとか、なんというか、やっぱりいろんなケースがあるんだな、と思った。でも何となく、私が感じる「意外とそんなもん」の空気がそこにも漂っていた。今更、「それがなかったら」の人生を想像するのはナンセンスにも思えた。

だって今、生きているから。たとえそこに、疾患がなければ意識することなく得られていた選択肢が存在しなかったとしても、自分の世界で、喜びも悲しみも感じながら、日々を送っているから。他人がその世界に対して、他人の目線で、可哀想なんじゃないか、不便なんじゃないか、人生を悲観しているんじゃないか、あの子はあれもこれもできないのだから、そんなジャッジをするのは違うというか、ある意味本人たちにとても失礼なことのように思った。

遺伝子上の疾患がわかってから、妊娠・出産した話

手術から約1年後、結婚することになった。両家顔合わせのとき、父は相手のお父さんにこう言った。

気の利かない、キズモノの娘ですが、よろしくお願いします。

父親として娘を「熨斗をつけて差し上げる」というか、そういう謙遜の気持ちや、照れ隠しもあっただろう。父も身体が弱いから、そんな血筋の自分自身を卑下する思いもあるのかもしれない。でも、とても悲しかった。悲しくて、悔しかった。ガチャで引き当てたものはハズレなんだよ、他の人は嫌がるものなんだよ、と一番近しい人から言われたように思った。確かに…そうなのかもしれない。引き当てなかった人から見たら、絶対嫌、お断り…なんだろうな。自分だったら人生に絶望するって、そういうことか。私だって他の想像もしていないカプセルが来たら、えぇぇぇってなるかもしれない。

でも私は、生まれてきたことを悲観したり、親を恨んだりはしなかった。何度も言うけれど、「意外とそんなもん」だったのだ。キズモノかどうかなんて私が決める。そして私は、自分をキズモノだなんて言いたくない。一方で、言われて傷つく自分もやっぱりいるんだなと思った。

父の発言を聞いた夫は後で私に、「今元気に暮らしている君しか知らないから、こうなるかもって並べられても正直あまり分からない。だからキズモノだなんて思わないで。」というような主旨のことを言ってくれて救われた。
相手のご両親も、キズモノと言われる娘と自分の大事な息子が結婚するなんて思うところもあったかもしれないけれど、特段それに何かコメントされることはなかった。
一番いろんなメガネで私を見ているのは、実は一番近い人だったのかもしれない。病状やリスクのこともわかっていて、ずっと心配もしてくれていたから。

そして結婚後、改めて検査をして、私のいくつかの心臓の欠陥は、マルファン症候群という遺伝子レベルの疾患に起因するものだとわかった。

マルファン症候群は、全身の結合組織(細胞と細胞をつなぐ組織)の働きが生まれつき弱いために、骨格の症状(高身長・細く長い指・背骨が曲がる・胸の変形など)、眼の症状(水晶体(レンズ)がずれる・強い近視など)、心臓血管の症状(動脈がこぶのようにふくらみ裂ける、心臓の弁がうまく閉じない、など)などを起こす病気。

マルファン症候群/ロイス・ディーツ症候群(指定難病167) – 難病情報センター (nanbyou.or.jp)

というか、実はキズモノ発言をした父も私の兄も、私より疾患が発覚したのは後だったけれど、すでに同じような手術をしているのだ。疾患は我が家に脈々と受け継がれる虎の巻…とまでは言わないけれど、私が回したガチャには結構な確率で「マルファン症候群に伴う心疾患」のカプセルが含まれていたらしい。

そうなると、昔から思っている「子どもを産みたい」に関しても、手術したからオッケー☆ではないようだ。なんせ妊娠中は圧倒的に血液量が増えるし、産後は子宮に集中していた血液がものすごい勢いで全身に戻っていくらしいし、その血液たちが通る血管が脆いのだから。弁がどうのこうのよりも、大動脈が裂けることなく耐えられるかが一番の懸念事項になった。
そしてもう一つ。これは遺伝要素なのだ。小さい頃から私を診てくれた小児科の主治医ははっきりとこう言った。

「基本的に、産んだら遺伝すると思ってください。」

実際、遺伝の確率はちょうど50%なのだけれど、心持ちとしては、ということだろう。
親になりたい、という自分の思いだけで、生まれてくる子どもに遺伝子上の疾患という運命を背負わせるかもしれない。それで妊娠・出産を望むのは、私のエゴなのだろうか。もし遺伝したとして、自分と同じ程度の病状なら、私は人生に希望を持って生きてこれているよ、大丈夫だよ、と言える。でも、その子にもし想像できないくらい日常生活の制限が多かったら。私が楽しんできたことを、すべて味わえなかったら。その子のケアで、私や夫の人生も一変したら。私は、我が子の人生に絶望せずにいられるのだろうか。産んでくれって言ってない!!なんて言われたら、耐えられるだろうか。
自分の人生が絶望的だなんて、他人に言われたくない。私は疾患によって何かを諦めた記憶はない。そううそぶいておきながら、自分と血を分けた子どもが同じカプセル、もしくはもっともっと大きなそれを持っていたら、と考えると話が違うのは、一体なぜなんだろう。

結局私も、自分より疾患が重度の子に対して、可哀想なんじゃないか、不便なんじゃないか、これがなければ…と自分の運命を恨むんじゃないか、そんなメガネを持っているのだ。母親である私のせいだ、私が原因で、この子は人生を楽しめないかもしれない、そう思うのが怖いのだ。でも、これこそがエゴなんじゃないかと思った。生まれてもいない子の人生を、私目線で憂いてジャッジをして自分を責めるなんて、やっぱり違う。だったら、母になりたいという昔からのひとつの夢を、叶えられるならその方が後悔しないと思った。そして夫も「子どもの病気のことなんて今の段階で何もわからないよ。そのときに皆で頑張れば大丈夫だよ。俺と君の子どもなんだから。」と言ってくれた。

結婚式が終わってしばらくして、妊娠がわかった。どんなことがあっても、生きてこの子に会いたい。それが私の夢になった。

流行り病が世を震撼させているその最中、何度か検査入院を経て、私は帝王切開で男の子を出産した。息子は37週きっちりお腹で穏やかに過ごし、小さく生まれたけれど自発呼吸で頑張ってくれた。産後に懸念された私の大動脈解離も、起こらなかった。今のところ、息子の心臓に特段の異常は見つかっていない。

自分が持っているカプセルの中身を皆が慮ってくれたから。たくさんたくさん調べてくれたから。心疾患の権威のような病院で、一番安全な環境をつくってくれたから。産前休暇より遥かに早く休職することを職場が認めてくれたから。家族も夫も私と子どもを信じてくれたから。
だから、母になることを選べた。夢を、叶えることができた。


結局、伝えたいこと

先天性の疾患というのはその病状も程度も人それぞれで、私はあらゆる面でかなり恵まれているのだと思う。けれど確実に言えるのは、誰しもが、周りのどんな近しい人たちとも違う、それぞれの世界を生きているということだ。疾患に対する捉え方は、周囲の環境や周りの人との関わりなどによっても様々に変わってくるだろうけれど、産んでくれた親を恨むとか、そういう感情はあまりないんじゃないだろうか。周りの人にしてみれば、できないことや不便、不安が多い人生に映るかもしれないけれど、その子の世界でキラキラと心惹かれるものというのは確実にあって、その中にいれば、たとえ重い疾患でも「意外とそんなもん」と捉えている人は少なくないんじゃないかと思う。他人の私が言うのも違うけれど。
だから、もし自身のお子さんに何か疾患があって、それを不安に思う親御さんがこの文章を読んでくださっているのなら、本当に心から、自分を責めないでくださいね、と伝えたい。お子さんの世界をのぞき見して、そこでキラキラするものを一緒に探して楽しんでくれたら、お子さんはそれが一番嬉しいと思う。やりたいことをやる人生を、選べると思う。
そして、これから先何があるかわからないけれど、私もそんな親でありたいと思っている。

ただ、親になった今、やっぱり強く思う。
子どもには、元気で生きていてほしい。そしてその姿を、自分の目で見ていきたい。
だから、疾患のことは、できるだけ知った方がいいと思う。それで生きていく道が開けることもあるから。30年そこそこの人生の中で、知っていることはアドバンテージだと、私は何度も感じているから。
その上で、自分の人生を生きていきたい。心疾患でやりたいことを諦めた記憶がほぼない、というのは、要するに諦めるのが嫌だったのだ。制限だと、人生の足枷だと、他人に言われるのも、自分で認めるのも嫌で、はね返してきたのだ。それは決して無理無謀をするという意味ではなく、制限なしでできるものに興味を持つとか、ある意味なかなか経験できない人生だな、と面白く捉えてみるとか、そういうちょっとした変化球の形で。

心疾患は身体ガチャだけれど、私の人生の世界をつくる重要な1ピースである。
これからもこのカプセルを時に確かめながら、どんな人生も自分で描いてみせる。生きて生きて、生き切ってみせる。カプセルを持っていることすら、自分自身なのだから。









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