寄稿のあとがき【『pluː vol.01』刊行記念リレー企画】

東大純愛同好会は、同人誌『pluː vol.01』の刊行を記念して、サークルメンバーによるブログリレーの企画を行ってきました。
本記事は、その12本目であり、最終回になります。
執筆者は、あああ(同人誌の担当箇所:編集長、座談会、寄稿)です。


好きなものについて語るのは難しい。お気に入りの曲やアニメやマンガについて書くことは、自分のブログで何度か試みたが、満足ゆくものは今のところ書けていない。何とか言葉を並べてみることはできても、好きなものに対して、あまりにもしょうもないものが出来上がってしまうこと、それ自体に、またそれへの人からの視線に耐えれないことに困難を感じる。

今回の同人誌では、一番好きなバンドについての文章を書いたが、それは自分と接近させてかなり自由にやったので、それまででは一番良くできたと思ったが、しかしそれはやはり禁じ手のように感じられて、結局あまり納得はできていない。

そもそもなぜ好きなものについて書こうとするのか。いろいろ考えても結局「居ても立っても居られないから」と答えになっていないところへ着地する。
受容しているだけでは満足できなくなってくる。しかし、その作品というのは抽象的なもので直接的に手を伸ばすことはできない。2次元の美少女に恋をしてしまうような隔絶がある。

そんな隔絶を埋めるための、最も直接的なアプローチは、自分も作るということになる。感銘を受けたものを引き継ぎ、新たな作品の生みの親になるということ。そうして子としての作品を生むことが、その隔絶を癒してくれる。しかし、作品を作ることはあまりにも大変ですぐにできることではない。そこで、とりあえず書くということで接近を試みる。これは僕個人の感覚で、もちろん、好きなものについて書くということにもっと前向きな動機を持っている人もいると思うが。

ところで、ここまでの話では、僕個人の内面についてで終始していた。しかし、実際には、何かを書くということ、もっと広く表現するということには、他の人間の視線がつきまとう。それが自分の勝手な想像にすぎなくても。

求める作品に対して、あまりに見すぼらしいものを書いたところで、何も癒されやしない。ただ、その距離を再確認させられるだけだと思う。

一体何が見すぼらしいのか。率直に面白くない。面白い作品について、面白くない文章を書いてしまう悲しさ。その上に意味もない。

面白くなくなってしまう理由の一つとして、「好きなもの」への敬意の問題、またそれに向けられる視線の問題が挙げられる。

敬意の問題とは、「好きなもの」について書くのであれば、それに対して意義のある文章にすべきだというある種の倫理観の話である。また、倫理観には半ば必然的に周囲の目線が関わってくる。

「意義のある文章にすべき」というのは、わかりやすく言えば、自己満足のオ○ニーで終わってはいけないんじゃないかということだ。好きな子をオカズにしたところでその子には接近できない、むしろ虚しくなるだけ、というのは冗談だけど、とにかく書こうとすると心理的ハードルがすっと現れる。その乗り越えるべき、心理的ハードルの高さは、つまりそれは価値基準になるが、非常に曖昧だ。小心者ゆえにそのハードルが立ち現れた時点で、僕は諦めモードになる。でも、結局欲求不満になってきて、ある意味自暴自棄になって書いたのがこれまでの個人ブログの文章だった。

サークルに寄稿した文章では一歩踏み込み、もう少し理性的にハードルを無視した(つもり)。そこで自棄になり切らず、書こうと思えたのは、自分がそのバンドのことを一番分かっているという青年期的な自信(誇大妄想)があってのことだと思う。

僕個人の寄稿の感想については以上となる。

同人誌制作に携わっていただいた同好会メンバー、同人誌を手に取っていただいた方々にはお礼申し上げます。


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