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怪文書【『pluː vol.01』刊行記念リレー企画】

東大純愛同好会は、同人誌『pluː vol.01』の刊行を記念して、サークルメンバーによるブログリレーの企画を行っています。
本記事は、その2本目になります。
執筆者は、惚倉ゆゆん(同人誌の担当箇所:座談会、寄稿)です。


 今更ながら、同人誌を出すべきなのだろうかと考えなおす。どういうことか? ―― いささか話を迂回せねばらない。
 あくまで僕個人としては、万人に共感される文章には(さほど)価値がないと思っている。同好会全体の方向性としてはわからないが、僕個人の文章についていえば、九割九分九厘の読者にゴミと扱われ、理解できないものと遠ざけられようとも、たった0.1%、たった1人の人と本当の会話が成立するような、そういった文章を目指していた(し、そういうものしか僕には多分記せない。まあ、今回はいろいろ道半ばになってしまったのだが)。――この姿勢自体が、僕にとっての「純愛」の態度とどこかで軌を一にする。
 「純愛」の態度とは何か。さしあたり今僕の頭に去来しているイメージを記す。嫌なことだらけ、悪しきシステムが蔓延る世界から力強く撤退して、二人だけの世界へ。そこだけが癒しであり、その全てが悦びに溶け合う場で(*卑猥な意味ではない)、社会の中で役割を果たす喜びなどが全き虚妄であると証しされる。
 これこそが純愛の態度の一つ*であるならば、僕の執筆態度(いや、執筆なんていう高貴なシロモノじゃない。駄文書き散らかし態度、汚物撒き散らかし態度)は、純愛の姿勢にどこか通ずる。奇しくも今回の同人誌で『沙耶の歌』座談会があったことを思い出す。純愛とは結局、僕にとっての「純」愛でしかない。つまり、人々から見れば「純」愛とは汚物と臓物に塗れた、グロテスクな何かでしかない。それでもなお、僕(ら)は純愛を語る。グロテスクな仕方で、発狂しながら。そしてたどり着く。一人の女性、一人の沙耶に。
 つまるところ、僕(ら)がさしあたり「純愛」と呼んだものの「純」性は、何か根本的に、大概の人には理解不能なのだ。いや、むしろ当為の次元 ―― 理解不能「でなければならない」ような気さえする。だからこそ、僕は多分、ごく少数の盟友に向けてしか文章を記していない。記せない。(とはいえ、多くの人々にキャッキャされて持て囃されたいという願望はやはりどうしようもなく、どこまでも存し続ける。あまりに「不純」だ)。それでもって、こうした執筆態度(排泄態度)とどこか通じるのが、「純愛」への希求・「純愛」からの要請である ―― たった一人の人とだけ、本当の対話が可能で、あとの人々には発狂にしか聞こえないようなそうしたやり取り。……この文章自体が、非常に気持ち悪い精神性に基づいて書かれていることを、今更になって告白せねばならない。「僕の文章なんて読まれる価値がない。でも読んで。本当の価値を理解して。」これはちょうど、「僕なんて愛される価値がない。でも愛して。僕の本当の価値を貴女(方)だけが見つけて」という姿勢とまったく同型なのだ。……我ながら、自分の気色悪さに吐き気を禁じ得ない。

*)もう一つの態度は、「君のために、世界を壊す」である。だが僕にはどうも、世界を壊すだけの力がない。寄稿文ではもはや「純愛」ができない自分、純愛を成し得るだけの能力がない自分を、「純愛不能者 impotentia」と名指した。この「純愛不能」は、世界を壊すだけの破壊的エレクチオンが、もはや不可能であることをも内包するのかもしれない。僕はあまりにも、泣きたいほど無力だ。

*****

  そんでもって、キャットじゃなくて猫 冒頭の疑問、「同人誌を出すべきなのだろうか」という問いに戻る。実は、僕は極めて奇妙な信念を持つ。『ほしのこえ』の最後において(以下数行ネタバレ)、もはや連絡不能になってなお、言葉が相通じる場面がある。なんかこうした次元で、たとえ言葉にせずとも既に伝わっているような、言葉が介在しない奇妙な共同体において、僕と「盟友」とはやり取りできているような気がしている。極論言えば、文章が文章として出来上がった時点で、文章は世界に刻まれる。そこで仕事は終了で、その仕事は即座に=無媒介に「盟友」へと伝わる。そこに伝達は必要ない。たとえ人為的に伝達が為されずとも、なぜか伝わってしまう。あるいは(もう少し弱めれば)「運命」によってめぐり合ってしまう(山内氏が言うところの、「天使主義」だろうか? ―― しかし、文章にする時点で言葉の彫琢を受けてはいる)。
 僕が極めて頭のおかしいことを言っていることに、もう読者諸賢はお気づきであろう。「文章は、書けば伝わる。いや、伝わることがなくても伝わっている。『運命』の力によって。」しかも、文章が全て、誰にも見せられる前に消失し、自分以外一切人目に伝わることがなくてもなお、何かが「盟友」に伝わるとさえ思っている(もちろん、それを完全に信じきることは出来ないが)。 
 同様の理由で、マッチングアプリ的なものを僕は忌避する。出会いは運命によってあらねばならない。傾向と確率と試行回数とで、恋愛とは解決されるべき問題ではない。その「恋人を求めて」登録し機械的工業的な操作をし続けようと「試みる」こと自体が、何か恋愛の本道から遠ざかっているように思われる(ここでそろそろ読者が完全に置いてけぼりになっているのを感じるが、ここまで書いたからにはもう好き勝手に書かせてもらおう!)。
 とすると、本を出版して読者に届けようと「試みる」こと自体が、何か僕自身の信念を裏切ることになってはいないか?だが告白しよう、なぜか届けたいと思ってしまっている。正確に言えば、「届けば良い」と思ってしまっている。なぜだ!僕自身、上記に述べた信念 ――「作品は伝達されることがなくとも、『盟友』には伝達される」―― を信じていないのではないか。ひいては、「運命の人は、出会いの試行錯誤なんてせずとも自然と『運命』によって出会われる(たとえ部屋に引きこもり、ネットもすべて遮断してもなお)」という、その確信さえもがフイにされてしまうのではないか!!!
 別様に言うならば、もはや僕らは白雪姫ではなくなってしまうのではないか。のんびりのんびり、わーわー、わーわー、でもどこか満ち足りない、そんな日常を過ごしている。それでもなお、白馬の王子(女)様が来てくれる。そんな姿勢を放棄してしまっていいのか**?『ペンギン・ハイウェイ』で言うなら「お姉さん」が来る前にお姉さんを求めて別の場所に彷徨ってしまったら、お姉さんが来てくれるはずのこの町にいることが出来ないじゃないか!!……「それでも『運命』ならば、邂逅するはず」?なるほど一理あるかもしれないが、でもそんな「運命」は何か、何かが違う!!決定的に動けない今ここに、今ここに何かが到来してくれなければ困るのだ!!!!

**)……いや、思い上がるな!そもそも僕らは白雪姫なんかじゃない!!見向きもされない小人たちだ!!!!

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 以上、発狂した文章であった。まあ何か感じ入るところがあれば(それがたとえ嘲笑という仕方でも)、幸いである。……とはいえ冷静になってみると、やはり文章は伝達されなければならない(しかし、この「されねばならない」こと自体が本当にそうあらねばならないことなのか、ということが問題なのであるが)。この中間媒体やメディアへの意識の欠如、直接的なものへの志向、そして媒介的なものの棄損願望が、セカイ系、純愛、あるいは僕の根本精神であるような気がする。「社会という中間項」は愛の前に弾け去るべきものである、のだと(そう、沙耶は社会と世界を壊した。――セカイへ)。

( ……まあ根本的に問うべきは、「『二人きりのセカイ』を希求し続ける僕が、どうしてなおこうして文章を書き、徒党を組み、そして『(表面的な発言とは裏腹に)そこそこ多くの人の目にさらしたいと思う/思ってしまうのか』という問いであって、それは明らかにここでは掘り下げられていないのであるが)。

 純愛における「社会という中間項」への忌避は、僕の最初の問の「出版という媒介」への疑問へと相通じる。……だが、「現実的な」観点からすれば、僕みたいな人間(「”社不”中の”社不”!」)は周囲に多大な迷惑をもたらし続ける。(中間項としての)「社会」からすれば僕は異分子だし、「出版」の側からいえばぶっちゃけ文章を書いた時点で完全に満足しちゃってるのであとは3部くらい売れればまあええやろと思っていることが証左するように周囲にとってはかなり迷惑というか、諸々の「現実的」感覚を僕は完全に欠いている――当たり前のことだが出版には予算がかかる。だが、そうした経済的なものからも含めてすべてから力強く撤退するのが「純愛」ではないか。純愛はお金じゃない。純愛にはお金はいらない。お金がなければ生きていけない。純愛に囚われる僕はマトモに現実的生活ができない。かくして、生活=生への拒否が、純愛作品群に特権的な表象となる。
 まあでも、この「出版するために多くに売らなければならない」、どうしようも拭い難くつきまとう「ちやほやされたい」という気持ちへの抵抗感というものは、資本主義やら際限なくフォロワー数の上昇が目指されるtwitter的空間やらへの根本的違和感と結びついていると思うので、何か大事にしていかねばならないものな予感がしている。

 僕の寄稿に関しては、大体こういった感じの気狂いが記している。

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〈追記:純愛と肉体、紙媒体〉 寄稿文中で、僕は「かつては心の底から、純愛には肉体が不要だと信じてやまなかった」と書いた気がする。だがしかし、(出版と「純愛」とを絡める今回の試みを元に再度考えなおしてみると、)僕は電子書籍よりも紙の本派であるし、辞書に関しても紙辞書信奉者である。恋愛では想念だけの世界を(少なくともかつては)夢想しながらも、出版物に関しては紙の手触り、物質的な存在感が、僕にとって極めて重大であるという奇妙な逆説へと陥っている。――「肉体なき純愛」を求める者ならば、紙媒体など不要でないか。紙媒体にしなければ、費用はさしあたりかからない。電子メディアとはそういう意味で、金がかからない=生活感がない。しかし僕は生活=生を忌避していたはずだ。
 紙の本は必要であるし、恋愛に肉体は必要ということになってしまう。……そんな結論でいいのか?こうして、序論の問い、「我々は(紙の本として)出版すべきか?」は再度肉体の問題とどこか絡み合わせて考えられるべき問いとなって、帰ってくるのかもしれない。(もう、ここまで読んでくれた読者でさえ「何言ってんだこいつ」状態だろうが)。

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