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暗黒系の純愛と出くわしたい【『pluː vol.01』刊行記念リレー企画】

東大純愛同好会は、同人誌『pluː vol.01』の刊行を記念して、サークルメンバーによるブログリレーの企画を行っています。
本記事は、その6本目になります。
執筆者は、星なき夜(サークルメンバー)です。


『すずめの戸締り』の最後、虫の息で倒れていたダイジンは「スズメの子にはなれなかった。」と呟いた。その言葉は、新海誠監督の一種の「変節」ではないかと、私そうは思う。『ほしのこえ』から『天気の子』まで染み渡ってきた寂しさや侘しさなど負の感情が石像となり、完全に固まってしまった結果、映画は明るい色彩と画面で円満な結末を観客に見せた。二人の純粋な愛が何から始まったかと言えば、草太のイケメン顔に惚れてしまうスズメの生物の本能という現実的なものだが、性愛なしで、軽い身体の接触だけで二人は純粋な愛に到達するのは、、、どう考えてもありえないだろう。新海誠監督は確かにこの映画を通して現実の問題に触れようとする。映画にもいちゃいちゃする場面を暗示するセリフや演出がたくさんある。しかし、感情の一つ一つがあまりに綺麗に描かれている。『すずめの戸締り』の純愛の描写は矛盾しているが、純愛を現実に通用できるかという問題を提起している。純愛を現実に体験するために、負の感情を浮き彫りにする作業は不可欠ではないだろうか(ここで一応暗黒系の純愛と呼ぶ。)

暗黒系の純愛を表現するためには、身体の接触が必要だ。そして、性交という行為は、身体の接触の象徴だ。一般的な純愛の定義からすると、負の感情を産みやすい性交は相容れないものとして敬遠され、排除される。しかし、現実には性交、またそれに相当する性行為という身体の接触が避けられない。また、それをスクリーンで映し出すのはやや問題になるが、フィルム・ノワールのように、様々な暗い演出で表現すればいいと思う。残念ながらこのような演出手法はCG技術に馴染んでいるいまの若者に嫌悪されている。結局、我々は身体の本来の生々しい感覚を失っていく。たとえ2010年代のスクリーンが情動的になっていっても、その情動は本能ではなく、音楽や特殊効果で作られ、己惚れによる産物だと思いう。そして、みんなで一緒に理想的でピュアな純愛に生きている。

ロマン語れば一晩中 疲れ知らずのall night long
恋する暇もないよ 波が押し寄せてくる
記憶の中を泳いでも、現実はcool and dry
愛(それ)を確かめたくて、何処へ彷徨い行くの

宇徳敬子『光と影のロマン』

九十年代の宇徳敬子の『光と影のロマン』が好きだが、私は彼女の歌に歌われた恋愛観に賛成したくない。誰かに頼っていればそれでいいと思って彷徨う。リアルなムードとしてそれは悪いことじゃないと思うが、他人に寄りすぎて主体性を失ってしまう危険性がある。今のSNSの時代、お互いに救済する純愛を描く映画はその危険性を巧妙に遠ざけている。多分、『光と影のロマン』の「彼女」は現実に失望し、流れに左往右往した。ただし、その歌声には暗黒系の純愛を成し遂げる可能性が潜んでいる。なぜなら、自ら愛を探すために暗闇に耐える勇気がある。いまの我々は、その勇気を失っているではないか。愛をひたすらに追求すれば、虚構な形になるのは必然である。それは「純愛」の定義の前提条件の一つでもあり、純愛の最大の魅力でもある。私もそのような虚構な形を達成する瞬間の喜びに憧れている。しかし、現実に勇気を失うと、純愛は果たして意味があるのか?ただの癒しなのか?それとも避難所なのか?その前に、つまり、勇気を取り戻すために、我々はまずは個人の脳を積極的に破壊しなければならない。柔軟性を諦めて、決断力をもって。それは必ず孤独感が伴う。そして、cool and dryな現実のなかで予期せぬ出会いと出くわしてみよう。必然性より偶然性のほうで身体の接触が発生しやすいだろう。また、自分の周りの現実と「対峙」しなければならない。つまり、暗黒系の純愛は喪失し続けるなかで生まれ変わるものであり、ちょっと「身勝手」な感情だと思う。(なぜここで、ブリュノ・デュモン監督の『フランス』(2021)を思い出したのか?)これは性交の喜びと同様、本当の現実の純愛ではないかと思う。

最近、『夏へのトンネル、さよならの出口』を鑑賞した。『ハローワールド』より、暗黒系の純愛の表現が感じられる。このような作品ともっと出くわしたい。また、今回の同人誌の刊行を機に、皆さんからの様々「純愛」の形も拝見したい。

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