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『安定した職に就く』ことは本当にいい事だろうか。



 私は半年前、とあるメーカーで技術員として入社した。大学生の間にバイトはしていたものの、働くということそのものを生業にし始めたのはつい最近のこと。

 大学の研究の延長で、今は自分の知恵と思考をお金に変えている。
 なぜ技術職を選んだのかと言うと、単に楽しいからだ。それによって給料がいいとか、専門職に近いために食いっぱぐれないとか、世間体として安定した職だとか、そういったことにあまり興味が無い。ひたすらトライアンドエラーを繰り返し、無いものに名前をつける仕事が楽しいからやっているに過ぎない。
 きっと、自分の中で楽しいと思えるボーダーラインを超えたり、満足する時が来るのなら、きっと今の職にお別れを告げることだろう。

 前提として、人間は仕事をするために、生きているのでは無い。
 生きるために必要な資金を得るために仕事をしているに過ぎない。

 だが、世の人間はお金持ち=幸せになれると勘違いしている。沢山稼げる人間になれれば自分の人生が薔薇色になれると盲信している。または、会社という1つの社会コミュニティで肩書きを得ることが人生の名誉だと思っている。仕事人間が素晴らしいことだとも、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 だが、沢山稼ぐということを高確率で成し得るのが、『安定した職に就く』という事象に落ち着くということだろうか。

 安定した職に就く=幸せという方程式はこの時点でまだ成り立っているような気がする。

 話は少し逸れるが、音楽や踊りなどの芸事に含まれる職業は、世間の目から見ると『安定した職』ではないと言う。地方の学生がギター片手に都市部へ上京することに、親が猛反対するという描写をドラマや小説で度々目にするし、芸能人の売れなかった過去話としてよく語られる。

 芸能人の過去話については、シンデレラストーリーとして画面映えするだろうし、そういうシナリオは大層好まれる。

 また、ここに出現する親という存在。一般論で語るならば、大切な子供が『安定した職』に就かず、苦労するかもしれないことを咎める、親として当然の所業なのだろう。
 ただ私からすれば、手塩にかけた老後の収入源、もとい子供が碌に真っ当に働きもせずに親という崇高な存在を放ったらかして己の手元から離れていくことを恐れているに過ぎない愚か者にしか見えない。

 親を経験していないペーペーが何を言っているんだと思われるかもしれないが、図星を突かれて動揺している人間は少なからずいそうだ。

 だが、子供が自発的に親の面倒を見てあげたいと思えない時点で、親子間の信頼関係を築けていない。子育てとして、いや人間関係の構築という授業を受けた人間としては十分落第点だろう。

 つまり、『安定した職に就く』=『正常な人間に与えられる特攻バフ』なのかもしれない。機能していた家族で育つとなんの違和感もなく安定した職に就いてくれる子供ができあがるという訳だ。この時点でも、安定した職に就く=幸せの方程式は成り立っていそうだ。

 だが、『安定した職に就く』とは『未成年の人間というキャラクターを完璧に操りきったプレイヤーの功績』とも言える場合はどうだろうか。

 具体的に言うと、弁護士や医者などの高収入職業に就けるように廃課金プレイヤーになり、レアドロップクエストを何千回と周回し、上手く操縦できなかったら台パンして暴言の限りを尽くす。

 ゲームにおいてはこの類の努力で高収入職業のバッチをゲットできるだろう。
 しかし、現実では精神状態の不安定な子供がボロボロになるまで使い続ければ、見えないところでガタが出るのは必然だろう。
 重度の青春コンプレックスに罹ったり、ピーターパン症候群に陥ったり、女子供を殴らないと憂さ晴らしできない、恋愛未経験の男を騙してジュエリーを買わせて、セックス依存症になる、等など。

 これでも安定した職に就く=幸せの方程式は成り立っているだろうか。

 長々と話してしまったが、タイトルにもある「『安定した職に就く』が良いこととされている理由」の答えは安定した幸せを、お金を得ることと言えそうだ。

 だが、あらゆる犠牲が伴ってまで得られる幸せなんてない方がマシだし、お金の執着などさっさと捨てて、慎ましく生きるべきだ。
 そして、お金では得られない自分にとっての幸せを探すために生きるべきだ。
 形のない、十人十色で存在する不確かな幸せを探すために生きている方が、人生を上手く使っているように思う。


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