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生ききる、ということ

2021年は、自著の執筆と撮影に多くの時間を費やした一年だった。
ちょっとした情報だったら無料で手に入る時代にわざわざ本を買ってもらおうというのだから、(どう評価されるかは別としても)持てる力は出しきったつもりでいる。
コロナ禍が続いたことで、店舗営業の縮小を余儀なくされた時期もあったけれど、心折れずに日々を過ごせたのは、気を張ってこの作業に専念していたからかもしれない。

ところが——
今年の春頃から、昨年一年の疲れが遅れて出たのか、それとも長引くコロナ騒ぎに緊張の糸が切れたのか、いつも通りのルーティンを続けているつもりなのに公私の歯車がうまく噛み合わず、どことなく低調な日々が続くようになった。
これまで人生の先輩たちから「50を超えると心身にいろいろな不調が出てくるよ」とさんざん脅されてきたので、「こういうものか……」と半ば諦めのような気持ちを抱きつつ、今は無理のないように仕事のペースを案配している。

そんな状況にあった6月末、長年闘病していた一つ年下の友人・Tさんが亡くなった。
訃報を受けてすぐ病院に駆けつけると、つい数時間前まで血が通っていたはずの彼女は既に霊安室に。夫のYさんが憔悴しきった様子で臨終の様子を語り、病床で撮ったというここ数日の動画を再生してくれた。
意識が薄らいでいくTさんは、愛するYさんの存在を傍らに感じながら最期を迎えられたようで、動画は、一人の女性が生を全うしたことを伝える尊い記録になっていた。
誰であれ、死の瞬間に立ち会うのには相応の覚悟がいるものだが、それが友人となれば尚更。動画の視聴を……と勧められたときは一瞬ひるんでしまったが、今は見せてもらってよかったと思っている。
彼女の死をなかなか受け容れられずにいる一方、動画を視聴したことによって「自分の人生をしっかり生ききったんだね。全うできたんだね」と、ひそかに安堵している自分もいる。

当たり前のことではあるが、人間、生まれた時に唯一決まっている未来は、やがて死ぬことだ。
それがいつ訪れるかはわからないけれど、やがて私も死ぬし、あなたも死ぬ。「かもしれない」でもなく「だろう」でもなく、確実に訪れる死は、われわれのDNAに仕掛けられた時限爆弾のようなものだと思う。
遠い未来のことと高をくくり、自らの死に際については極力考えないようにしてきたが、友人の死は、すべての人の人生においてカウントダウンがひそかに進んでいることを改めて教えてくれた。

とは言え、私の人生はもうしばらく続きそうである。
直近の数ヶ月を不甲斐なく過ごしてきてしまったことについては悔やまれるが、悔やんでばかりいても埒が明かない。これからは心身を整えてもっと「生」に執着しなければ……と、思いを新たにしている。

振り返れば、春以降の不調は年齢のせいだけではなく、コロナ禍でインプットが絶えた中、アウトプットばかり続けていたこともその一因ではないだろうか。
私のような常人は知識や感性を無尽蔵に蓄えているわけではないから、人としての収支のバランスが崩れてガス欠を起こしてしまっていたのかもしれない。
パンデミックが収束すれば、地方への出張や作り手との対話など、インプットのための行動も心おきなく再開できるようになるはずだ。非常時における商売のかじ取りはさほど楽なものではないけれど、収束後の世の趨勢を見据え、今は目の前にあることをひとつひとつ前に進めていくしかない。

Tさんの死は、私の人生に「生ききる」という新たな命題を与えてくれた。
心よりご冥福をお祈りしたい。
どうぞやすらかに。そしてありがとう。

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