『オオカミの家』感想 2023/09/09

美しい山々に囲まれたチリ南部のドイツ人集落。”助け合って幸せに”をモットーとするその集落に、動物が大好きなマリアという美しい娘が暮らしていた。ある日、豚を逃がしてしまったマリアは、きびしい罰に耐えられず集落から脱走してしまう。逃げ込んだ一軒家で出会った2匹の子豚に「ペドロ」「アナ」と名付け、世話をすることにしたマリア。だが、安心したのもつかの間、森の奥から彼女を探すオオカミの声が聞こえ始める。怯えるマリアに呼応するように、子豚は恐ろしい姿に形を変え、家は悪夢のようなまがまがしい世界へと化していく。(パンフレットより)

『オオカミの家』はチリの二人組監督クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャによる長編アニメーションで、全編カメラが止まることなく、ワンシーン・ワンカットで撮影されているというから驚きだ。ストップモーションアニメでありながら、人物や動物、そして家までもがその都度生成され再構築されていく様は異様であり、魔術的でさえある。

そんな表現に思わず魅入ってしまうこと間違いなしだが、本作品で注目したいのは全体の枠構造だ。この作品が始まるときに前置きとして「過去に作られた映像が発掘されたこと」が明らかになるが(同時上映作品『骨』も同じく)、殊『オオカミの家』では、ドイツ系住民のコミュニティ「コロニア・ディグニダ」 が作ったPR動画であると説明されるのである。この最初の映像が何とも胡散臭い。うろ覚えだが自然の中でとか、チリ人の皆さんとも共生してどうのこうのというあたりなど、事前情報をあまり入れずに来た私は何を見せられているのだろうと訝るほどだった(とはいえこの映像は重要だ。特に蜂蜜)。コミュニティの疑義を晴らすためという目的が示されてほどなく、本編が始まりオオカミから逃げる少女マリアが家に逃げ込む。

と、ここでいったん登場人物の整理とそれぞれが何を象徴しているかを考えてみたい。

主な登場人物はオオカミ、マリア、マリアが逃げた先で見つけた子豚2匹。

 まず、オオカミ。オオカミはマリアが家に逃げ込んでからも、マリアを呼び続け、「偽物のお前が本物の家をもてるはずがないだろう」と声をかける。この声は冒頭の動画におけるナレーションと同じであり、「コロニア・ディグニダ」のリーダーであるパウル・シェーファーを象徴していると考えられる。しかし、実際にシェーファー=オオカミがマリアを追いかけてきて家の外に待ち構えているかどうかは問題ではなく、マリアが内在化させた声であることが重要だろう(「私の存在を感じるか?」)。オオカミは家の壁に潜り込み、その目でマリアを見張っている。

 次に、マリア。マリアはコロニーから逃げ出したドイツ系の少女であると思われる(レオン&コシーニャによる制作十か条―Ⅸ. Maria is beautiful (the protagonist's distinctive features, such as blonde hair and blue eyes, remained stable through the whole movie))。ちなみに、マリアという名前、青い服から聖母マリアが想起されるが(レオン&コシーニャによる制作十か条ーⅦ. Color is symbolic.)

 彼女は、逃げ込んだ先で見つけた豚2匹を魔法で人間に変えペドロとアナと名付ける。オオカミの家から逃げ出して別の共同体を作り上げようとしたのである。コロニア・ディグニダでは家族が解体されていたということから推測するに、そこで得られなかった家族を疑似的に模していると考えられる(マリア=母、アナとペドロが子ども)。ただ、オオカミの家から逃れたはずのマリアはオオカミの声にとらわれ続けている点、そしてマリア自身も「蜜」を使って黒髪から「金髪」というマリアにとって「優れている」と思われる姿に二人を変える、優しい言葉で服従を強いるなど、オオカミの優生思想、支配をなぞっている点を忘れてはならない。ある意味、マリアの家ではマリア自身がオオカミであったともいえる。そして、最後には彼女が作り上げようとした共同体の破綻、自らの危機に瀕し、オオカミへと助けを求め、彼女は小鳥と木へと姿を変えオオカミの家へと戻ることになる。支配されることは不自由でもあるが、匿われる安全を保障されるという甘い蜜でもある。そこから逃れることは難しい。さらに、木は、ほかの信者を呼び寄せる役目も果たすと考えられ、他の人をも引き込んでしまうため、それがどこであってもオオカミの家たり得るしオオカミの家は広まり続ける。

 子豚2匹はマリアによって人間にされペドロ、アナと名付けられる。シェーファーは、女性を雌鶏、子どもを豚と呼んでいたそうだ。この子豚たちが誰を象徴しているのかは定かではない(周辺住民?)が、豚→黒髪→金髪とマリアによって変化させられていくのは、優生思想に基づく洗脳であり、同化であろう。家の外に出てはいけないというマリアの教え(洗脳)を受け続けた彼らは、その教えを自ら破ろうとしたマリアに牙をむく。

 ちなみに、シェーファーによるマリアの支配、そしてマリア自身も抜け出そうとしつつ、(失敗に終わったにせよ)同様のことを行うという二重の支配からは、『雪の轍』を想起した。

 枠について考えるうえで、注目したいのがマリアがペドロに絵本を読み聞かせるシーンである。言うことを聞かない犬が家から飛び出した末に…というものだが、ここで鑑賞者である私たち自身が『オオカミの家』を読み聞かせられている豚の一員であることに気づかされるのである。つまり、鑑賞者は物語を「見」ているだけではなく、物語の中に巻き込まれているのである。そのため、本作品は場所や人物を超えて、普遍性を持ち、私達自身もオオカミの家にいるのではないかという不安を抱かせる。

 そのほか、話されている言語にも着目されたい。オオカミは常にドイツ語である。マリアはアナ、ペドロに話しかける際にスペイン語を用いているが、読み聞かせの途中でドイツ語に切り替わる、アナとペドロにドイツ語の歌を歌わせる、ラストでオオカミにドイツ語で助けを求めるなど、スペイン語とドイツ語が切り替わるタイミングがおそらく重要となる。

 以上のように、本作品は非常に引き込まれる表現技法をとっているうえに、構成も凝ったなかなか見れない作品であったため、私としては満足している。

 しかし、ここで1つ疑問が浮かぶ。松田英子氏がトラウマのある人には見てほしくないと感じたように、この映画が鑑賞者にもたらす影響、そしてこの映画から私たちは何を受け取ればいいのか、ということである。予備知識がない場合、PR動画だというウソを本当だと思ってしまう可能性がある=メタ的視点を持てないということは、フィクションと現実の境目があいまいであるということだ。私たちはマインドコントロールを解くことはできず希望はない。この作品の結論として、そう受け取るべきなのか。おそらく希望は映画の中ではなく鑑賞者の側に見いだせるだろう。この映画に対して気持ち悪さと恐怖を感じる鑑賞者の。シェーファーの皮を被って、つまり洗脳されることを想定して作られたと考えうるこの映像と鑑賞者のズレに意識的であり続けることこそが希望たりうる、と私は考える。


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