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芸術はコロナウイルスに勝てない

今日は自分が主宰のワークショップを行う予定だったけれど、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止にした。

「大規模なイベントではないから問題ない」と考えたり、「そういう考え方の累積が止まらない満員電車になっているのでは?」とも考えたりして、かなり迷った上での決断だった。

中止に決めた理由はいろいろある。例えば先進的な企業ほどイベントを中止にしていることだったり(僕も行く予定だったミミクリデザインのイベントは中止になった)、厚生労働省がイベントに関して「開催の必要性を改めて検討していただくよう」というメッセージを出したことだったりがある(こういう時、僕はわりとCitizenshipを大事にする)。

しかし、一番大きいのは「来てください」と言えないことだった。

今回のワークショップはすでに実施できる人数にはなっていたけれど、もう少し参加者を増やしたいラインだった。しかし今の状況で告知する気持ちになれるかというと、そういう気持ちにはなれなかった。「コロナウイルスに負けずに」などとはとても言えないし、しれっと告知するのも不誠実な感じがした。

「来てください」と言えないくらいならやめたほうがいい。それが一番の判断基準だった。(念のため言っておくと、これはあくまでも僕の今回の基準であって、他の人もそうすべきだとは考えていない。)

こういう時、芸術はすごく弱いものだと思う。

先にも書いたとおり、厚生労働省は「開催の必要性を改めて検討していただくよう」と言っているけれど、開催の必要性で考えたらほとんどの芸術にそんなものはないだろう。「コロナウイルスが流行っていますが、うちの作品はそれを超えて観に来る価値があります!」と言っている芸術団体があったら教えてほしいくらいだ。

韓国では「コロナによる公演取り消し·延期によって経済的困難を経験する芸術家が緊急生活資金を融資されることができるように来月から計30億ウォン規模の資金支援に出ることにした」らしい。さすが『パラサイト』を生んだ国だと思う。

日本で政府が同じようなことをやる可能性は1ミリもないだろう。なんならZOZO前社長の前澤さんが個人でやる可能性のほうが高いくらいだ。

しかしだからといって、僕は芸術が社会にとって必要のないものだとは思わない。「余裕があるからこそできるもの」だとも思わない。むしろ余裕のない時こそ必要な可能性もある(ただし、その形式を選ぶ必要はあるが)。

人や社会は余裕が無くなると一方方向に進みたくなる。今もまさにそんな状況だろう。そんなときに問いを投げかけるのが芸術の役割のひとつだと思う。

芸術はコロナウイルスに勝つことはできない。しかしコロナウイルスが広まる中で生まれる差別や権力や止まらない満員電車に対して問いを投げかけることはできる。そういう種類のものなのだと思う。

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