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コルトレーン『Ascension』の新しさについて(後輩Bとの対話)

セシル・テイラーとヤニス・クセナキス

私「セシル・テイラーとエリック・ドルフィーだったら後者の方がすきですか?」

B「比較すれば、そうですね。」

私「やはりそうか。これは先入観があるかもしれないが、セシル・テイラーはクラシックの当時の現代音楽に影響を受けているから、いわばクラシック→ジャズと進んだのであって、それはつまりクセナキスなど現代音楽のもつバイタリティーをジャズに持ち込んだと考えられるような気がした。

対してオーネット・コールマンとかエリック・ドルフィーとかコルトレーンは(三者を並べていいのかわからないが)ハードバップのスタイルからフリーにいったので、やはりジャズの文法が強い気がする。

ちょっと長いけど、クセナキスの『シナファイ』の、ピアノに結構たくさん音が出てくるところとか、セシル・テイラーっぽい気がする。」

https://youtu.be/5v1HQfhEMcE

セシルと同時代の前衛音楽

B「聴きました。確かに似ていると感じさせる部分がありますね。

セシルの1956年の初アルバムを聴いても、リズムセクションに合わせてスイングする感じではなく、クセナキスの様な現代音楽に近い印象を受けますね。」

私「うん、私もこのアルバムについては、後年にも通ずる、いわゆる皆が言うところのジャズとは違う響きの萌芽があると思う。」

B「『音楽院でシュトックハウゼンなどに親しんだ』みたいな話も聞いたことがあるような…

演奏以外にも、『交響楽団にも所属していたベース奏者を起用した』『数テイクの録音をつなぎ合わせて一つの曲とした』『プリペアド・ピアノの使用をレーベルに申し出た』など、クラシック演奏家を彷彿とさせるエピソードが多い気がします。」

セシルの音楽のジャズとしての異質性

私「ありがとう。
現代音楽は、西洋音楽のフレーズとか調性を否定するところに軸足を置いていたところがあるから、セシルはそれとハード・バップの生命力を結び付けようとしたのかなぁと。だから、ハード・バップの編成による現代音楽、みたいな音楽性が強いのかもしれない。

一方でシュトックハウゼンとかは、オーケストラによってオーケストラ(西洋音楽)を否定する、もしくは西洋音楽に与さない音響(電子音楽など)によって西洋音楽を否定することを是としていたということなのかもしらん。

だが、B君のようにジャズに親しんだ人にとっては、セシルの音楽は異質、ジャズの臭いがしないように感じられるんじゃないかな。」

B「確かに、そんな風に少し感じます。」

私「ジャズを進化させるために、前衛音楽の語法を取り入れようとすれば、ジャズでなくなってしまう――そこのアンビバレンツを乗り越えようとしたのがコルトレーンのように私には思われるし、その総決算が『Ascension』のようにも思える。」

(2020.9)

セシルが作った道を歩けたのはコルトレーン

以上は約一年半前の後輩とのLINEでのやり取りなのであるが、残念ながらこのときの私はなぜコルトレーンの『Ascension』に、前衛音楽とジャズとの止揚(アウフヘーベン)を聴いたのか、彼に伝えていない。だから私も覚えていない。
ただ恐らくこのときの私は単に、フリー・ジャズの激しくハチャメチャに踊り狂うようなムードと、同時代の前衛音楽の激怒しながらすべてをぶち壊していくような雰囲気とが、コルトレーンの儀礼的で魔術的な音楽の中で矛盾なく融合している、という『Ascension』を初めて聴いたものなら誰でも抱く感動に取り憑かれていたというだけであろう。それが私の言った「総決算」である。甚だ月並な回答だ。
しかし、以降さまざまなフリー・ジャズのアルバムを聴いて、なるほどとか面白いとか思うけれども、やはり『Ascension』ほどの感動はそうそう得られないということもまた事実である。

いまこのアルバムを聴いて改めて思うことは、この音楽が高いレヴェルで「完成」していることである。中山康樹の本で読んだが、この「Ascension」の演奏の際には、ソロの順番やその時間などもおおまかに決められていたのだという。また出す音符も、なにか特定の旋法(モード)にある程度則っているように聴こえる。つまり『Ascension』はそれまでのフリー・ジャズのように、それぞれがそれぞれの音を好き勝手(高いレベル)に吹いている訳ではなくて、フリー・ジャズ風の「楽曲」を演奏しているアルバムだということができる。これをフリー・ジャズの「死」と言うこともできようが、私はそれよりもフリー・ジャズの「洗練」とか「昇華」とか、もしくは文字通り「昇天」とか呼びたいところだ。即興という空白の余地を残すモダン・ジャズとそれのよりプリミティブな形でのフリー・ジャズ、そのフリー・ジャズによって得られたバイタリティを、楽曲として再現する――それが『Ascension』なのではないか。

勿論ジャズ・ミュージシャンによるジャズなのだから、ある程度空白の余地は残っている。しかし別テイクとの聴き比べをしたとき、その白地のスペースは他のフリー・ジャズの楽曲より多くとられていないように思える。(もし暇があれば例を挙げたいところだが…)とにかくこの曲は、ジャズとしてはクラシック的な行き方で演奏されたものなのだ。

さて、それでは、クラシック音楽としてはどう評価されるか、ということが問題になってくる。このことについて、とりあえず私は次のように考える。『Ascension』では、ちょうどドビュッシーの、アジアの音楽に影響された作曲と同じ意味での、音色(ソロ・合奏)やニュアンスやフレージングの新しさが提示されている。「アフリカン・アメリカンのジャズ・ミュージシャンを集めて、サックスやトランペットやピアノやドラムを演奏させよ」という指定が楽譜にある楽曲はこれまでになかったし、前衛音楽家の誰もがその音を思い描かなかった。ミヨーがラテンのリズムを使ったり、ベリオが民謡歌手をオーケストラに加えたりしたのと同じ文脈で、『Ascension』を語ることができるのではないだろうか。
ここまでコルトレーンばかり持ち上げていると、自分でも何だか薄気味悪い中学生の文章のようにも思えてくる。セシル・テイラーだってその方向を目指していたのではないか?確かに、上で述べたように、セシル・テイラーは先駆者だった。彼はジャズと前衛音楽を融合する道を作るミュージシャンのひとりとなり、その道幅を広げ続けた。しかし、彼は同業者に認めてもらうにはあまりにも前衛音楽の方に傾斜し過ぎており、ジャズ・ミュージシャンとして異質であった。セシルが作った道は、コルトレーンの堂々たる足取りで歩かれることによって、ようやっと地図に載った。彼は全くのジャズ・ミュージシャンであったから。クラシックとしての「Ascension」という楽曲の完成とは、このような意味を持っているのではないかと私は思う。セシル・テイラーがやろうとしていた前衛音楽とジャズのアウフヘーベンが、コルトレーンによって完全に行われたという意味を。


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