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セーラー服と黒い傘

もう30年前の(30年という数字にはいまだに慣れない)、わたしが高校生のときの他愛ないできごとだが、雨が降るとときどき思い出す。

わたしが通う高校は、高層ビルが立ち並ぶオフィス街を抜けたずっと先にあった。毎朝、ビジネスマンの大群に交じってセーラー服を着たわたしは歩いた。
駅から学校までは歩けば20分以上あったので、バスで通う生徒が多かったし、わたしは遅刻魔だったので、通学途中で同級生を見かけることは少なかった。

ある朝、駅に着いたら雨が降っていた。傘を持っていなかったが、小雨だったので、そのまま歩いていくことにした。
ところが、5分もしないうちに雨は本降りになってきた。
そのあたりにコンビニがなかったか、そもそもビニール傘を買うという発想がなかったか、あるいは今ほどビニール傘が一般的ではなかったか、お金がなかったか。とにかく、そのときのわたしは、傘を買うという行動をとろうとしていなかった。なるべく建物の軒下を歩くといった涙ぐましい努力で、極力雨を避けた。
そんなとき、一人のサラリーマンが「お入んなさい」と黒い傘を差し出してくれた。

都会人は困っているひとを見かけても知らんぷりをすることが地方に比べて多い、と言われる。
それが本当だとしたら、彼ら都会人のほとんどが意地悪なのではなく照れくさいだからだ、とわたしは思っている。
「照れくさい」が60%、「気が利かない」が15%、「変なことに巻き込まれたら困る」が20%、「面倒くさい」が5%ってところだと勝手に思っている。30年前は「変なことに巻き込まれる」は、もうちょっと少なかったかもしれない。

とにかくそんな東京砂漠でも親切なひとはいるのだ。
わたしは差し出された男物の大きな傘に、「すみません」と言いながら入らせてもらった。

そのひとの目的地であるビルまでのほんの5分ほどを、あいあい傘で歩いた。途中なにを話したか覚えていない。
当時、そのひとの年齢なんか意識していなかったけれど、今思えば40歳前後だったような気がする。

「あ、僕ここのビルなんで。入り口のところまで一緒に行ってもらっていいかな」
道路からビルの入口まで15mくらいあったので、ほんのちょっとだけ遠回りしてくれということだ。つまり、傘はそのまま持っていきなさいということだ。
という親切を素直に受けていいのかわからなかったわたしは、傘を借りつことにいったんは遠慮し、でもそのひとは持っていきなさいと言った。

「ここの37階にいます。◯◯といいます」
とそのひとはオフィスの場所と名前を言って、ビルのなかにちょっとふざけた歩き方―軍隊の歩き方を軽くしたような―で入っていった。自分のした親切にちょっと照れていたのかもしれない。

37階にいる。だから、傘はそこに持ってきてくれればいいということだろうか。
「じゃあ、帰りにお返しに来ます」とでも言っておけばはっきりしたのだが、ぼーっとした高校生はぼーっとしたまま、女子高生にはそぐわない黒い傘をさしながら、年頃らしい少しの恥ずかしさを抱いて歩いた。

学校に行って友達にそのことを話すと
「それって、返せってことじゃない?」
と言われた。
やっぱりそうだよねえ。名のられ、オフィスの場所まで教えられたのだ。それに、返さなくていいとは言われていない。ビニール傘でもないわけだし。

放課後、雨はすっかりあがっていた。
友達に付き合ってもらって、そのビルの37階に向かった。37階は一つの会社がワンフロアを占めていた。この中に傘を貸してくれたひとがいるはずだ。

なんの会社だったか忘れた。ただ、銀行や保険会社とか、そういった一般人が来ることを想定したオフィスではなかったのは確かだ。
そんなところにセーラー服の女子高生が現れたから、女のひとが一人、どうしたことかとすぐに出てきてくれた。

わたしは事情を話した。でもその女のひとは、そういう名前のひとはここにはいないと言った。
おや。フロアか名前を聞き間違えたか? いや、あのひとは確かに37階と言った。
名前だってそうそう間違えて覚えるものではない。平常時の女子高生は営業マンと違って、新しい名前を覚えることなんて一日に1回あればいいほうなのだから。

今思えば、その女のひとはフロアにいる社員全員の名前を覚えていたわけではなかったかもしれない。
女子高生の抜群の聴力、あるいは記憶力がエラーを起こしていたのかもしれない。
そこにあのひとがいたかもしれないし、いなかったかもしれない。
いずれにしても、何らかの行き違いでその黒い傘を持ち主のところに戻すことはかなわなかった。

わたしはまたそのおじさんっぽい傘を、ちょっと恥ずかしい思いで片手に持ちながら帰った。

あれからもわたしは毎朝サラリーマン軍団に交じって登校したが、あのひとと会うことはなかった。
わたしたちは同じ時間に同じ場所を歩いていたのかもしれないけれど、お互いに同じ方向を向いて歩いているのだから、気づかなかっただけなのかもしれない。
彼の後ろ姿を見かけたこともあったのかもしれない。わたしも後ろ姿を見られていたのかもしれない。
あいあい傘で横に並んで歩いていたから、そもそも顔をまともに見ていない。確信を持ってこのひと! という自信はなかったから、会えなくても当然だったかもしれない。

黒い傘はしばらく家にあった。傘がやたらと多かったわが家(父が外出先で雨に降られては傘を買ってくる)の傘立てに混じって、だんだんとどれがその傘かわからなくなってきた。

当たり前だが、今はその傘はない。
傘を貸してくれたあのひとは、なにごともなくどこかにいるだろうか。いるとしたら、もう会社勤めは終えて違うことをしているだろうか。それとも、社長さんかなんかになって現役で働いているだろうか。

顔も名前も覚えていませんし、傘もどっかにいっちゃいましたけど、あなたの親切は脳内ハードディスクが劣化した今でも覚えていますよ。

親切を受けることに照れくさかったわたしは、傘を貸してくれたことに対して、ちゃんと目を見て「ありがとう」と言えなかった。だから顔を覚えていなかったのだ。

歳を重ねた今でもそういう一面はある。
照れくさいという思いは持っていてもいいけれど、受けた親切はもっと堂々ありがたくいただこう。

あ、傘を貸してくれたひと、ありがとうございましたー!

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