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死ぬときに後悔しないために?

人間は息を引き取る直前にそれまでの生き様を後悔することがあるという話を読んだことがある。でも、あまり真に受ける話ではないなと思った。
なぜならわたしは父を始めとして何人かの親族を亡くしているが、人生における後悔を口にしたひとは一人もいないからだ(本人がどう思っていたのかは謎だけど)。

理由はそれだけじゃない。
死にかけてるひとが「やりたいことをやればよかった」と思っていたとしよう。でも、人生をやり直せたとして、今度こそやりたいことをやろうと思うかどうかは疑問だ。

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やりたいことをやらなければならないとずっと思っていた。多くのひとには、毎日仕事をするとか、家事をするなどといった大きなルーチンが一つくらいあると思う。私が思っていたやらなければならないやりたいことととは、その大きなルーチン以外のなにかだった。

平日は仕事をして休日は少しの趣味をする、という感じで生き続けていてよいのだろうかという思いが常に常に頭にあった。
自分にはこれといった能力がないと思っている一方で、なにかでひとかどの人物になりたい、あるいは社会に貢献したという実績がほしかったんだと思う。
べつに有名人になりたいわけじゃない。ルーチン外のなにかでアウトプットをしたい、しなければいけないと思っていた。

なぜそう思っていたのか、理由がやっとわかった。
いくつになっても新しいことはできると思っているが、肉体的な問題でやり直しができなくなるときがくる。そのとき、自分の人生にはなにもなかったと苦しみたくなかったのだ。

だけど、そんな思考回路がそもそもおかしいんではないか。ストレスの原因は過去か未来を考えることらしいけれど、まさにわたしは死に際という未来を危惧して、あるはずのないものを無理やり探していたのだ。
死に際を心配した上での「やりたいこと」なんて、見つかったとしてもほんとうにやりたいことではない。知人たちの「Facebook映え」するようなエピソードを見て、それと同じレベルのなにかを目指そうとしていたにすぎない。自分にも他人にもわかりやすい達成感があるものを探していた。

だけどそうじゃない。
毎日の生活の一つ一つがやりたいことなのだ。趣味的なものも、家事も、明日からまた会社かーとうんざりする会社勤めすらやりたいことなのだ。だってどれもこれも自分が選んだことなのだから。

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わたしは去年演劇(役者)を初めて経験して、面白すぎてこの先も続けたいと思い、演劇ユニットの立ち上げ準備をしていた。だけどそれはとある事情からなくなってしまった。演じたい気持ちは強いので他の機会を模索するも、なんだかもう演劇の世界(というかシステム)がいやになってしまって、そのうちコロナ騒動も始まり、演劇熱はすっかり冷えてしまった。
こんな感じで、自然と心からやりたいと思っていたことですら生きている間でも容易に冷めてしまう。だから死にそうだったのに、落語の「死神」のように、「アジャラカモクレン、アソウタロウ……」のおかげで急に元気になったとしても、やりたいことなんか忘れてしまうかもしれない。死に際の後悔なんてただの感傷である可能性が高いと思う。

死に際のことを考えて行動するなんて本末転倒だった。未来を考えてもしょうがない。やりたいことを探していると思っていたけど、今やりたいことはたくさんあった。
家を快適な空間にする、運動と食事の面から健康管理をする。本を読み、映画や芝居、落語を観る。自由とか正というものについてもっと学ぶ。そういえば演劇熱は冷めたと言いつつ滑舌の練習や音読なんかもしている。文章を書く。あ、それから仕事をすることもね、一応。
死ぬときという未来のことを考えてもしょうがない。今は生きているのだし、生きているのは今なのだ。

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