うとQ世話し 名状しがたい疲れと悲しみ

2021/2/25
(うとQ世話し 名状しがたい疲れと悲しみ)
自分は子供の頃から「結構素直な子」ではなくて「結構素直に反応する子」でした。
1対1の対称形と申しますか、刺激が来ると直ぐ様、何らかの反応を示していた様です。
大人になってもそれは余り変わらず、人によってはその反応の良さを好いて下さる方もおりました。
本日のお話はその自慢話ではなく、そんな自分から見ると「表情一つ変えず、何も反応しないという有様が不思議に見えてならない。一体どうなっているのだろう?」という疑問のお話です。
兎に角街を歩いていると老若男女を問わず、この「無表情、無反応」に多く出くわします。
人間を生物としてみると、死体でも無い限り全く反応がないと言う事はあり得ません。
だとすると刺激を受けて生起した反応は何処へ行ってしまっているのか?
自分にはその対処法の見当がまるでつかず、不思議でなりません。
どこだかの廃炉の汚水ではありませんが、生起した反応を溜め続けておくと、そのうち耐えきれなくなって爆発してしまいます。
そうならない為には反応を分解処理するか、又は反応を誘引する刺激体を遮断又は回避するしかありません。
それで追々、観察を始めた処、前者は目立たぬ意地悪等でチョロ出し分解をし、後者は「兎に角見て見ぬ振り」や「無関心スルー」でやり過ごしている様に見えてきました。
で、次の疑問が湧いてきました。
「ならば何故そんな事をしているのか?」
親から
「簡単に本心を見せてはいけない。本心を読まれたが最後、お前はその人に一生弱みを握られる事になるのだから」
とでも言われているのでしょうか?
或いはその「無表情、無反応。無関心スルー」は負の価値ではなく「事に於いての不動の落ち着き」とか「立派な人間の品格」として捉えられているのでしょうか?
もしそうなら、もっと堂々としていても良さそうなものなのですが、どうもその様にも見えません。
だったら、一体何によるのだろうと考えてみた末に、思いついたのが
「隣と同じ横並び」
でした。
兎に角目立ってはいけない。違ってもいけない。差があってはいけない。
「隊列を乱したら、先生から笛を吹かれて叩かれる」
刺激の吸収どころか、刺激を感じる体内全器官 を破壊されてしまうから。
しかし、それでも未だ分らない処が残ります。
一方で「目立ちたい」という願望も明らかに見て取れるからです。
いや「目立ちたい」というより「関心を向けて欲しい」「忘れて欲しくない」そうしてそれこそ「無関心スルーだけは御免だ」という方が正しいかもしれません。
「私は、外からの刺激を受けて小さく丸まってしまう「玉虫」です。でもスルーだけはしないで下さい。気づいて下さい。お願いだから」
(でも声掛は、こちらからはしませんから。そちらからまず、ですから)
という二律背反。
一体何でこんな複雑な事になってしまっているのでしょう、我が国は。
何だか言い様もなく疲れ、悲しくなってしまいました。


よろしければサポートをお願い申し上げます。戴いたサポートは自分が書く上での活動費として使わせていただきます。