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【あだしま】安達の頭は、なぜ毛むくじゃらの生き物に見えたのか【現代哲学】

文:shin

※小説版・アニメ版『安達としまむら』(入間人間) のネタバレ(小説版8巻まで)を含みます。

安達の頭を見下ろす。顔とセットで見ると綺麗に思えるそれも、単品で目に映るとどことなくシュールだった。毛むくじゃらの生き物に見える。わたしの頭も似たようなものかな。

入間人間『安達としまむら』——1巻, 38頁

これは、小説版第1巻・38頁にある1節です。
アニメ版第1話においても同様のフレーズが登場しています。

自転車の後ろで安達の頭を見下ろしたとき、顔とセットで見ると綺麗に見えるそれも、毛むくじゃらの生き物に見える。わたしも似たようなものかな。変な一日だった。

TVアニメ『安達としまむら』第1話

率直に言って変なフレーズではないでしょうか。この表現に出会ったとき、私はかなり違和感を覚えました。

小説版ではこの1節が1つの段落になっていますが、この段落を削除して読んでみても、前後の段落はスムーズに繋がります。むしろこの段落を削除したほうが、物語のテンポが良くなるのではないかと感じるほどです。

このnoteの目的は2つあります。

1つは、この描写(以下、「毛むくじゃら描写」)は一体何なのかという問題に応えることにあり、もう1つは、「毛むくじゃら描写」の考察を通じて、『安達としまむら』の物語全体に一貫した解釈を与えることにあります。

私の仮説はこうです。


仮説①

「毛むくじゃら描写」はたどり着きようがない「他者」が実在することを意味するものである。

仮説②
『安達としまむら』は、2人の「メランコリスト」がそのような「他者」に出会い、「メランコリー」を抜け出す物語である。


キーワードは「他者」と「メランコリー」の2つ
です。

以下では、まず「毛むくじゃら描写」の意味を考察します。その中で、1つ目のキーワードである「他者」が、『安達としまむら』においてどのような存在として描かれているか検討します。

「毛むくじゃら描写」について考えた後は、2つ目のキーワード、「メランコリー」について論じます。「メランコリー」の意味を明らかにした後、実際に『安達としまむら』から具体例を挙げつつ、2人が「メランコリスト」であることを確認します。

最後に、この2つのキーワードの関係に焦点をあてます。「他者」が「メランコリー」を抜け出すきっかけになりうることを、それまでに論じてきた「他者」という存在の特別な性質を踏まえながら説明します。


「毛むくじゃら描写」の意味を考える


ここから、仮説①の説明に入ります。繰り返しになりますが、仮説①は次の通りです。


仮説①
「毛むくじゃら描写」はたどり着きようがない「他者」が実在することを意味するものである。

この仮説に共感していただくためには、2つの議論を踏まえる必要があります。少しの間『安達としまむら』から離れることになりますが、以下の記述はすべて「毛むくじゃら描写」を理解すること、ひいては『安達としまむら』を理解することに繋がっています。


1つ目は、「他者」とはどのような存在か、という問題についてです。

まず、「他者」とは「ほかのひと」、つまり自分以外の人間のことを指します。ここまでは当たり前ですね。ですが、この言葉にあえてカギ括弧を付けたのには、他者という存在がもつ次のような性質を意識していることを示すためです。

他者の最大の特徴は、その内面(あるいは意識)に直接触れることができないという点にあるといえます。他者がどのようなことを感じ、何を考えているかは、本人以外には経験しようがない、ということです。こちらも言われてみれば当たり前ですね。


例えば、あなたの友人が「おなかが痛い」と苦しそうに訴えているとしましょう。あなたは、自分が腹痛に苦しんだ経験を思い出して、「ああ、確かに痛そうで苦しそうだ」と思うかもしれません。

しかしこのとき、あなたがどれほど鮮明に腹痛の苦しみを想像したとしても、それは想像でしかなく、あの「ずきずきと痛む感じ」を直接経験することはできません。

私たちは自らの経験を想起することで他者の内面を想像することはできますが、それにじかに触れることはできないのです。


また、「自分以外の人間には、意識が全く存在しないかもしれない」とか、「自分にとって赤に見えるものは、他人にとっては青に見えていて、それを『赤』と呼んでいるだけかもしれない」といった想像をしたことがある人は多いのではないでしょうか(前者は「哲学的ゾンビ」、後者は「逆転スペクトル」とよばれる問題です)。

このような問題は、「他者」の意識が、本人以外の人にとって徹底的にアクセス不可能であるという性質から生じているといえるでしょう。


私が「他者」という言葉で意図しているのは、以上で説明した、身近なようで実は隔てられている、捉えどころのない存在のことです。このような「他者」の概念が『安達としまむら』において何度も現れているのですが、それは後で確認することにして、今は先を急ぎましょう。 


次は、「実在する」とはどのようなことか、という問題についてです。

いかにも哲学的な響きがします。ここからの議論は、『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』(岩内章太郎, 2019)(以下、『哲学』)を参照しながら進めていきます。

少し話がそれますが、私が今回この記事を書こうと思った動機の多くはこの本にあります。現代のメランコリー(後述)について精緻な分析を施しており、『安達としまむら』とぴったり重なるところがあるのです。

それでは本題に戻りましょう。

素朴に考えれば、私の身の回りの世界は、私に関係なく現実に存在しているように思われます。私の目の前のキーボードも、マウスも、横においてあるコップも、私とは何ら関係なく、空間の一部を占め、ただ存在している、という風に考えられます。これはデカルト的な世界観です。

デカルトによれば、物の本質は空間の一部分を占めることである。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』—— 91頁

以上のような主張は妥当なように感じられますが、1つの大きな改善点を含んでいます。「私とは何ら関係なく」というところです。

カント以降の哲学者たち、例えばニーチェやユクスキュル、ハイデガーは、世界は<私>が持つ特定の関心によって現われてくる、と考えました(『哲学』, 41, 92-94頁)。

「世界が<私>の関心によって現われてくる」というのは、この手の議論に慣れている人には容易に納得していただけるでしょうが、初見の人には理解しがたい部分があるかもしれません。上のような考え方は、「物が単に存在している」という日常的な感覚とはだいぶ異なりますので、理解しがたいのは無理もないことだと思います。私も説明してみますが、詳しく知りたい人はぜひ『哲学』を手に取ってみてください。

「世界が<私>の関心によって現われてくる」とは、例えば次のようなことです。私たちの意識(=関心)は、通常、「いかに快適に生活するか」ということに自然と向いているのではないでしょうか。私はいま、椅子に座りながらこの note を書いていますが、「椅子」という物は、単にそこに空間的な広がりを持っているというよりは、私にとっては座るためのもの「として」そこにあるのです。椅子だけでなく、机も、パソコンも、キーボードも、コップも、私にとっては快適な生活を送るための「道具として」そこにあるのです。

なんとなく理解していただけたでしょうか。世界を、<私>の「気遣い」によって現われてくる「道具存在」として捉える以上のような世界観は、ハイデガーによるものです(『哲学』, 92-94頁)。


物が「特定の関心によって現われてくる」のだとすれば、関心の在り方によって世界の現れ方は異なります。『哲学』において岩内氏は、人の顔を例に挙げてこのことを巧みに説明しています(95頁)。私も、ほとんどの人が経験したことがあるであろう事象を取り上げて説明してみます。

ある漢字を見つめていると、「あれ、こんな形だったっけ」と、こんな風に感じたことがある人は少なくないと思います(ゲシュタルト崩壊というやつです)。例えば「毛」という漢字をじーっと見てみてください。

毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛毛

なんだか異様な形に見えてきませんか?
なぜこのような経験が生じるのでしょうか。岩内氏による次のような説明には説得力があります。

上で指摘した通り、私たちは一定の関心の下で世界に接しています。漢字を読む場合、私たちの関心は、漢字それ自体を認識することではなく、それを含む文章の意味を理解することに向いています。そのような通常の関心から離れ、なんとなく漢字を眺めてみると、異様な形に見えてくる。それは、岩内氏の表現を借りていえば、毛の「「意味」が剥奪され』」「(物としての)」「「存在」が露呈する経験」なのです(『哲学』, 95頁)。

これは文字だけでなく、物の現れ方について広く言えることです。

注:ゲシュタルト崩壊の先には、日常的な物の異様な姿がありますが、その異様な姿が真の姿、物それ自体の姿であると言っているわけではありません。主張したいのは、そのような経験が、私たちにとって現われてくる物の姿は常に特定の関心のもとにあり、物の姿は別様でありうることを示唆する、つまり私たちが普段見ている世界は絶対的ではなく相対的なものであることを予感させる、ということです。


ここまでの議論を簡単におさらいしましょう。

  • 「他者」=内面に触れられない、捉えどころのない遠くの存在

  • 世界は一定の関心によって立ち現われてくるが、通常の文脈から離れると、異様な姿を示す

これで「毛むくじゃら描写」を説明する舞台は整いました。
勘の良い方はお気づきだと思いますが、「毛むくじゃら描写」とは、日常的な意味が剥奪された「存在」が現れてくる、ゲシュタルト崩壊と同様の経験を描写したものだといえるでしょう。

『哲学』には次のような表現があり、「毛むくじゃら描写」の謎を解くための大きな手掛かりであるような気がします。

消しゴムをぼおっと見ていると、あたかも物が私に無関心であるかのような体験もする。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』—— 95頁

以上のことを念頭に「毛むくじゃら描写」を解釈すると次のようになります。

「毛むくじゃら描写」は、「しまむらにとって現われてくる安達」と、「安達それ自体」の間に乖離があることを示唆する経験の描写であり、しまむらが、無限に果てしない「他者」に接していることを特徴的に描いている

私たちが普段接している「他者」というのは、私たちが特定の関心の下、いわば「作り上げた」像であり、それはその人本来の姿(あるいは、その人が作り上げるその人自身の像、もしくは他の人にとって現われるその人の在り方)からかけ離れているかもしれない。「毛むくじゃら描写」は、「他者」に関するそのような予感を描いているのではないでしょうか。


ご理解いただけたでしょうか。実はこの「捉えどころのない『他者』と接する」というテーマは、『安達としまむら』において、何度も繰り返し現れているといえます。

先ほどは後回しにしましたが、ここで、「他者」概念が『安達としまむら』における中心的なテーマの1つになっていることを、実際に作品を引用しながら確認しましょう。


まず1巻105頁、『安達クエスチョン』から、

しまむらは、しまむらだった。多分ずっと、私の中ではしまむらなのだ。

入間人間『安達としまむら』——1巻, 105頁

という1節です。

「私の中ではしまむらなのだ」というのは妙な言い方に聞こえますが、要はこういうことではないでしょうか。

島村抱月という人物は、島村抱月自身にとっては「わたし」として(しまむらの関心のもと)現れ、しまむら(妹)にとっては「ねーちゃん」として(やはり妹の関心のもと)現れ、祖母にとっては「抱月」として現れ、そして安達桜にとっては「しまむら」として現れるのです。 

このような「○○に対して(その関心のもと)現れる」という仕方で表現できるものを「表象」といいます。つまり「しまむら」というのは安達桜がもつ島村抱月の「表象」である、ということです。

私たちは表象を介してしか他者と接触することができません。これまで確認してきたように、表象は客観的な存在ではなく、主観的、相対的な存在であります。これは寂しいことのようにも聞こえますが、安達は前向きです。上の引用には続きがあります。

しまむらは、しまむらだった。多分ずっと、私の中ではしまむらなのだ。意味分からないけどそこに安心感がある。ふと気が抜ける響きがある。よいものだ。

入間人間『安達としまむら』——1巻, 105頁

表象を介してしか触れることのできない「他者」という存在とどう向きあえるか。実はここにメランコリーから脱出するためのヒントがあるのですが、これについては、note 終盤で論じることとします。

今ここで確認にしておきたいのは、果てしなく遠い(=表象を介してしか触れることができない)「他者」と接触するという、「毛むくじゃら描写」と共通するテーマが上の安達の語りでも繰り返されている、ということです。

2つ目の引用は、1巻『未来フィッシング』からで、次の会話です(台詞の間の語りは省略)。

しまむら「なかなか釣れないもんね」
知我麻社「まずそう思うことが大事なのです」
しまむら「はぁ?」
知我麻社「なかなか釣れない、うまくいかない。それはすなわち、なにかを始めているということ」
知我麻社「あとはただよい未来を願って、釣り糸を垂らすだけです」

入間人間『安達としまむら』——1巻, 74-75頁

以上の会話において、釣りをすることが明らかに何かのメタファーになっています。

素直に考えれば、『未来フィッシング』というタイトルにあるように、「釣りをすること」は「未来に向かって行動をおこすこと」のメタファーである、という解釈になりそうです。この解釈は未来フィッシングの後半部分(しまむらが安達を授業に誘う)を考えても、しっくりきます。

しかし、私は、「釣りをすること」が「たどり着きようがない『他者』と交渉しようとすること」のメタファーになっているという解釈も同時に成立すると考えています。その根拠は次のようなものです。

まず、アニメ版第1話の冒頭(つまり、このアニメ1番最初)のカットに映っているのは、2匹の川魚です。そして、第2話、4話、5話、7話、8話、12話において、しまむらと妹が飼っているであろう金魚2匹(しかもそのうち1匹は青!安達を連想させる!)のみを映すカットが挿入されています。

さらに「池」について、小説版には、安達による次のような語りがあります。

しまむら本人より、しまむらのことを考えているんじゃないだろうか。でもそれは、しまむらのことを多く理解しているということには繋がらない。池の周りをぐるぐるといくら回っても、池の水の冷たさや、なにが潜んで暮らしているかを知ることはできないようなものだ。

入間人間『安達としまむら』——2巻, 59頁

また、『未来フィッシング』においても、しまむらによる次のような語りがあります。

わたしには濁った池にしか見えないそこに、日野はなにかを見抜いているのだろう。

入間人間『安達としまむら』——1巻, 72頁

以上のことから、こう言えるのではないしょうか。

『安達としまむら』において、魚は人間の暗喩になっている。そのような「魚=人間」は、(濁った)池の向こう側にいる「なかなか釣れない」存在、すなわち「他者」として描かれている

これらのことから、とらえどころのない「他者」という存在は、『安達としまむら』において繰り返し現れるテーマになっているといえるのではないでしょうか。


仮説①の検討はここまでにして、仮説②の説明に進もうと思います。


「メランコリー」とは何か


仮説②は次のようなものでした。


仮説②
『安達としまむら』は、2人の「メランコリスト」がそのような「他者」に出会い、「メランコリー」を抜け出す物語である。

「他者」という言葉で私が何を意図しているかについては、これまでちょっとしつこいぐらい説明してきました。

ここで説明すべきは、「メランコリスト」・「メランコリー」という言葉です。まず、「メランコリスト」とは、「メランコリー」の状態にある人を指します。問うべきは、「メランコリー」とはいかなる状況のことか、という問題です。

ここで再び『哲学』を参照します。上でも述べましたが、私がこの note を書こうと思った動機はこの本にあり、より具体的には、これから述べる「メランコリー」の概念が『安達としまむら』の世界観、特に島村抱月の在り方を的確に表現していると感じたことにあります。

岩内氏は、「ニヒリズム」と区別することで、「メランコリー」の概念を明確にしています。順番に見ていきますが、興味がある方には『哲学』を手に取ることを再び強く勧めます。

彼は、リオタール(フランスの哲学者, 1924-1998)を引用しながらニヒリズムを説明しています。

近代(モダン)という時代においては、「大きな物語」が信じられてきましたが、近代以後(いわゆるポスト・モダン)において、そのような「大きな物語」は失われてしまいました。(『哲学』, 20頁。)

これがリオタールの主張です。
「大きな物語」というのは、例えば次のようなものです。

すべての国は、資本主義を乗り越え共産主義にたどり着く。そして万国の労働者は解放される。

このような共産主義思想は「大きな物語」の最たる例ですが、以下のようなものも、広い意味で「大きな物語」と捉えられます。

徳の高い生き方をすれば、神様に救われて天国に行ける。

一生懸命勉強していい大学に入れば、いい会社に就職して安定して幸せな人生を送ることが約束される。

このような物語を信じることは私たちを日々の不安から解放してくれますが、ポスト・モダンにおいて「大きな物語」は失われてしまいました。「大きな物語」が失われた結果、人々は「あらゆることは無意味かもしれない」と悩むようになります。これがニヒリズムです。

「大きな物語」の喪失がニヒリズムに繋がるメカニズムについて、岩内氏の説明は次のようなものです(私の理解が正確ならば……ですが)。

マルクス主義の失敗を考えれば理解しやすいのですが、「大きな物語」の喪失というのは、目標や欲望が叶わず「挫折」するという経験です。それまで信じていた価値やそれに向けた運動が、失敗によって無意味なものに感じられるようになるのです。理性には、特定の物事を一般化・全体化させる働きがある(これはカントによる洞察です)。これにより、特定の意味の喪失が、世界全体の意味の喪失へと押し上げられる。つまり、「○○(例えば、労働運動)は無意味かもしれない」という感覚が、一般性・全体性へと向かう理性の働きを受け、「あらゆることは無意味かもしれない」という感覚へと拡大する、ということです(『哲学』, 24頁)。

ニヒリズムはこのようにして生まれます。岩内氏は、ニヒリズムを「意味喪失の経験」「欲望の挫折」と形容しています(同上, 24頁)。


留意すべきは、ニヒリズムは、あらかじめ感じられていた巨大な価値が失われたときに現れるという点です。安達やしまむらはニヒリストではありません。彼女たちは、大きな物語の喪失(マルクス主義の挫折)を経験していないからです。彼女たちは(これを書いている私も)、そのような意味が失われた後に生まれてきているのです。

私たちの世代は何か大きな挫折を経験していないものの、最初から「強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態」に生まれてきています(『哲学』, 24頁)。これが、岩内氏による「メランコリー」の定義です。彼はメランコリーを「欲望の不活性」と形容した上で、次のように説明しています。明晰かつ的確な表現であり、言い換えるのが難しいので直接引用させていただきます。

ニヒリストは伝統的権威に対する「攻撃性」を持ち、あらゆるものは無意味かもしれないという「虚無感」に苦しむが、メランコリストにとっての問題は、欲望の鬱積から出来する「倦怠」と「疲労」、そして、いま手にしている意味もやがては消えていくかもしれないという「ディスイリュージョンの予感」である。要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。あるいは、次のようにも言えるかもしれない。ニヒリズムは絶望の一形態だが、メランコリーには希望も、そして絶望さえもないのだ、と。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』——25頁。

しまむらが醸し出す「けだるさ」のようなものが、見事に言語化されていると思います。『安達のしまむら』の世界観には、知我麻社(自称670歳の宇宙人・未来人!!)が登場するなどの非現実的な側面があるのにも関わらず、やけに現代的でリアルなものとして感じられるのは、初期の安達、そしてしまむらがメランコリストとして描かれているのではないでしょうか。


しまむらがメランコリスト的であることを示唆する描写には事欠きません。

わたしは一人だとゲームでまったく遊ばない。本もあまり読まないし、映画も観に行かない。買い物も季節の移り変わりにあわせて服を買いに行くぐらい。休日はどう過ごしているの、と安達に聞かれたことがあったけど答えることに少し困った。ぼーっとしていることが多い。

入間人間『安達としまむら』——1巻、148頁。

隙あらばなにか売りつけようとしてくる、その商魂のたくましさに感心する。わたしはこういう風に食い下がるものを持ったことがない。そんな気がしてならない。

入間人間『安達としまむら』——2巻、16-17頁。

卒業文集で先生が生徒たちに一言ずつコメントを書くコーナーがあったけど、そういうときになにを書けばいいのか困らせる側の子供だった。結局、なにを書いてもらったか覚えていない。

入間人間『安達としまむら』——2巻、18頁。

安達「しまむらってなにが好きとか、知ってる?」
日野「あいつの好きなもの……って、あんの?」

入間人間『安達としまむら』——2巻、131頁。

しまむらは何かに対するこだわりや欲望を持っていないということが、繰り返し表現されています。


初期の安達にも同様の傾向が見受けられます。しかし、それは初期、すなわちしまむらという、安達にとっての巨大な価値に出会う前、あるいは出会ってまもないときに限られます。特に顕著に見られるのは、4巻の冒頭、中学校時代の安達が描かれる『桜と春と』においてです。ある大学の入試に出題されて話題になった箇所ですね。

この章で反復されているのは、安達が周囲の世界へ示す「興味の無さ」です。中学校時代の安達は、学校生活にも、自分に話しかけてくれる語り手にも、まるで興味を示しません。

「興味の無さ」は、きわめてメランコリスト的なものと言えます。ニヒリストなら、学校生活や他者の意味を、積極的・攻撃的に無化することでしょう。

しかし、この章の安達はメランコリストであって、ニヒリストではありません。このことをよく表すのは、次の描写です(台詞の間の語りは省略)。

語り手「本とか、読まないの?」
安達「好きな本は読む」
語り手「よかったらなにか、面白いなーって本紹介しようか?」
安達「え、いや別に、いらない」

入間人間『安達としまむら』——4巻, 17頁

私は呆気にとられる。善意に対する多少の愛想とか、そういうものもなく。かといって煩わしく感じている様子もなくて、無味無臭な態度を一貫している。本当に興味ないんだなぁと。むしろ、こっちは興味を湧かせてしまう。

入間人間『安達としまむら』——4巻, 17頁

一般に信じられてきた価値を煩わしく感じて、積極的に無化するのがニヒリストです。しかし安達はただ無関心であるだけなのです。きわめてメランコリスト的なものが表現されている、と言ってよいでしょう。

以上のことから、安達としまむらは「メランコリスト」である、という私の主張に納得いただけるでしょうか。 


安達としまむらは、いかにして「メランコリー」から脱出したか


仮説②に関するここまでの議論をおさらいしましょう。

  • メランコリーとは、いかなる欲望も湧きあがらない状況を指す。

  • 安達としまむらは、そのような状況に陥っている、メランコリストである。

以下で検討したいのは、二人がいかにしてメランコリーから脱出したか、という点についてです。だんだんメランコリーの文字がゲシュタルト崩壊してきましたが、もう少しです。


まず、安達について。 

上で見たように、中学生の安達はメランコリストそのものですが、しまむらと出会ってからは、あきらかにメランコリーから脱しており、もはや別人のようです。それが最も強烈に描写されているのは、みんな大好き『しまむらの刃』(5巻)ではないでしょうか。

先に引用したように、メランコリストには「希望も、そして絶望さえもない」のです(『哲学』, 25頁)。

『しまむらの刃』には、安達の持つ絶望のようなものが、衝撃的な仕方で描写されています。これを絶望と形容することの妥当性はともかく、この安達の巨大な感情は、しまむらへの強烈な関心が無ければ成り立たないでしょう

安達が具体的にいつメランコリーから抜け出した、すなわち、いつしまむらに関心を持ち始めたか、ピンポイントに指摘することは難しいですが、おそくとも『未来フィッシング』でしまむらの手を握る時点(1巻, 92頁)には、しまむらが安達にとって特別な存在になっていると言ってよさそうです。

安達はいかにメランコリーから脱したかという問いに対する私の応答は、これです。

安達にとって、しまむらと出会ったことが、メランコリーから脱する直接的な原因となっている。 


安達は比較的早い段階でメランコリーから脱しましたが、しまむらのメランコリー具合はなかなか手ごわいです。こちらも『しまむらの刃』で顕著に表れています。

多くのあだしまファンの記憶に刻まれていることと思いますが、安達があれほど強烈な仕方で感情をぶつけたのに対し、しまむらが放った言葉は「めんどくさいなぁ」、なのです(5巻, 124頁)。

もうそろそろしつこいと思いますが、メランコリストの特徴の1つはその無気力さ、無関心さにあります。ここにしまむらの根深いメランコリスト性が見受けられるでしょう。


安達のケースと同様、しまむらがいつどのようにして脱メランコリーを果たすのか、これを断定することは難しいですが、以下の3点を、私は自信と根拠をもって主張できます。

  1. しまむらが脱メランコリーを果たすこと。

  2. 「他者」がそのきっかけを提供すること。

  3. 「他者」を契機とするしまむらの「脱メランコリー」が『安達としまむら』最大のテーマとなっていること。


まず1つ目について。

上で、しまむらには強いこだわり(=欲望)のようなものがない、と主張しましたが、実はそうとも言い切れない部分があります。メランコリーから抜け出すための手掛かりのようなものがある、ということです。しかもこれは、安達と出会ったかなり最初の方から描写されています。


例えば、体育館の2階に日野と永藤が来ることついて、

 わたしにも根本を掴めているわけじゃない。
 だけど日野と永藤がここへ来るのは、なんか違うなぁと、強く感じたのだけは確かだった。

入間人間『安達としまむら』——1巻、54頁

と語っています。

これだけではメランコリーから脱しているとはいえませんが、それでもしまむらの世界に確かな意味が芽生えている、という風に考えることができます。


しまむらがメランコリーから脱していることがはっきりとわかるのは、8巻の終盤、霧の中で安達と手を取り合う場面ではないでしょうか(台詞の亜間の語りは省略)。

安達「しまむらがいなくなったら、こんな毎日になるんだろうなって......考えた」
「....................................」
安達「......しまむら?」
しまむら「わたしもだよ」

入間人間『安達としまむら』——8巻、202頁

このような神秘的な場面を説明するのは野暮というものかもしれませんが、この、しまむらがいなくなった毎日というのは、メランコリー(あるいは意味が失われるという経験なので、ニヒリズム)の日々と解釈できます。これについて、しまむらが「わたしもだよ」と返答していることを考えれば、しまむらも既にメランコリーを脱出していると考えられるのです。


次に2つ目の主張についてです。ここでいよいよ、これまで論じてきた「他者」と「メランコリー」の問題が接続します。

『哲学』において、他者がメランコリーから脱出する契機になりうると以下の通り指摘されています。直接引用します。

(前略)他者は<私>を超越する存在でもある。他者の心は決して現前しない。(中略)<私>と他者のあいだには深い隔絶があるのだ。その隔たりは関係不安の源泉であるが、しかしもう一つの——<私>の観念では決して無化されえない——意味の源泉でもある。どれだけ自分に閉じこもっても、どれだけ倦怠を感じても、他者は<私>に話しかけてくる。別様でありうることの可能性を訴えてくる。つまり、他者はメランコリーの外部にいるのだ。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』——273頁

引用の前半部分において説明されているのは、私たちも検討してきた「他者」の概念です。「他者はメランコリーの外側にいる」とは、次のような状況のことでしょう。

note 前半で指摘したように、世界は<私>の関心によって形作られます。だとしたら、メランコリスト的関心の下に現れる世界の表象は、最初から無化された、没意味・没価値的なものになりがちです。しかし、「他者」は「毛むくじゃら描写」が示唆するように、私の関心を超えたところに存在しているから、「<私>の観念(≒関心)では決して無化されない」「<私>を超越した存在」であるのです。

少し込み入っていますが、ざっくり言うとこういうことです。「そもそも世界に意味や価値なんてあるのだろうか」という観念の下で生活していると、あらゆることが無意味に思えてきてしまう。いわば、メランコリストの感覚は、身の回りの世界全体に感染してしまう(=世界が「無化」される)

しかし、「他者」は<私>の世界の向こう側にいる。「他者」は私が作り上げるのではなく、確かに実在している。だから、感染を逃れることができる(=「他者」は無化されない)


「他者」は、その内面にアクセス不可能な無限に遠い存在であるからこそ、<私>のメランコリーに対抗することができるのです。

以上のような「他者」と「メランコリー」の関係は、『安達としまむら』にも発見できます。

例えば、前半で引用したこの部分です。

しまむらは、しまむらだった。多分ずっと、私の中ではしまむらなのだ。意味分からないけどそこに安心感がある。ふと気が抜ける響きがある。よいものだ。

入間人間『安達としまむら』——1巻、105頁

「しまむら」とは安達がもつ島村抱月の表象であると既に指摘しましたが、この言い方は、島村抱月が「他者」であることを前提としています。そのことに安達が安心感を覚えるのは、安達にとって、島村抱月が「<私>の観念では決して無化されない」存在であるからではないでしょうか。

樽見「でもそういうしまちゃんのうっすい感じの横顔を見ているとさ、なに考えてんだろー、って思っちゃうわけ。そうなったら負け、いや勝ちなとこあるんだ……」

入間人間『安達としまむら』——4巻、78頁

樽見のこの言葉にも、「他者」と「メランコリー」の関係が同様に現れているのではないでしょうか。


前置きが長くなりましたが、「他者」はしまむらが脱メランコリーを果たすきっかけとなる。これが2つ目の主張でした。「他者」が脱メランコリーのきっかけになりうることを、しまむら自身も直感しています。上の樽見の台詞の後に、しまむらは次のように語っています。ちょっと長いですが、あだしまで最も重要な語りだと思うので、思い切って引用します。

 わたしは良くない癖というか、多分誰でも持っているであろう感覚……いやそう考えること自体がそこにはまっちゃっているのか。つまり、自分の考えがみんなの考え、みたいに捉えてしまうことが結構あって、それが恐らく周りの人に強く関心を持てない理由の一つかなと思う。
 だって自分と似ている相手なんて、知ってどうするのだ。
 だけどそれは大抵の場合に間違いで、こうして同じ時間を過ごした樽見はまったく別の感想を持って今ここにいる。他人はわたしと違うのだな、と間に引かれた線を意識する。
 新鮮な感覚だ。それに気づかせてくれるのはやはり、他人しかないのだ。
(中略)
 ただ、その線を踏み越えて相手の素顔を覗くかどうかは、また別の問題だった。

入間人間『安達としまむら』——4巻、79頁

しまむらの癖は、「他者」の内面を「自分と似たようなものだろう」と切り捨ててしまうことにある、と本人が語っています。このように考えるとき、もはや他者は「他者」ではなくなってしまい、メランコリーに対抗することができなくなってしまいます

しかし、しまむらが他者との「間に引かれた線を意識する」とき、つまり、他者が自分とは異なるものであると認めるとき、他者の「他者」性は復活するのです。


先の引用で、「他者」が「関係不安の源泉」になりうると岩内氏が指摘しているように、他者が「他者」であることに対して、しまむらもネガティブな感情を覚えています。引用した語りの最後の言葉は、それを顕著に示しているといえるでしょう。

しまむらがいつどのようにして脱メランコリーを果たしたか、はっきりと答えることはできません。しかし、安達や樽見がしまむらに対してそうであるように、しまむらが他者を「他者」として認め、そこに「関係不安の源泉」ではなく、「意味の源泉」を見出すとき、メランコリーから脱するための、おそらく唯一の方法があるはずです。

「他者」の内面に直接触れることはできないから、私たちはそれを想像するしかないのです。相手の気持ちを推し量り、それにあわせて行動することは、確かに面倒で疲れることです。しまむらが言うように、それは自らが「摩耗」していく経験かもしれません(1巻, 204頁)。

しかし社のアドバイスにもある通り、「他者」を「なかなか釣れないもの」として認め、「よい未来を願って」根気強く「釣り糸を垂らす」とき、「他者」は<私>をメランコリーから連れ出してくれるのではないでしょうか(1巻, 74-75頁)。


長かった議論ももう少しで終わります。

最後の主張、すなわち、「他者」を契機としてしまむらがメランコリーを脱出することが、『安達としまむら』において最大のテーマになっているということについて説明します。

例えば、『安達としまむら』の物語を簡潔に表現してくださいと問われたら、あなたは何と応えるでしょうか。

私はこう応えます。

主人公しまむらが、安達と出会うことで、意味に満ちた世界を生きるようになる(=メランコリーを脱出する)物語である。

もちろんこの問いに対する応答は無数にあっていいはずです。


私がこのように応えるのは、次のような理由に基づいています。

まず、『安達としまむら』の主人公は安達ではなくしまむらであるという点についてです。

そもそも主人公とは何でしょうか。
ソ連の文学者ユーリ・ロトマン(1922-1993)は、「ある領域から別の領域へ移動する」者、と説明しています(『文学と文化記号論』, 294頁)。

『安達としまむら』における2つの領域とは、メランコリー的世界と、非メランコリー的世界だといえるでしょう。安達、そしてしまむらは最初メランコリー的世界にいますが、安達はしまむらと出会ったこと、つまり起承転結だったら「起」の部分で脱メランコリーを果たしてしまいます。

日野や永藤からは、最初から陽気な雰囲気を感じます。非メランコリー的世界にいると言ってよいでしょう(それでも、メランコリー的側面を見せることがあり、そこに奥深さがありますが)。しまむら(妹)や社は、メランコリーとは無縁そうです。

やはり主人公はしまむらだとするのが良いのではないでしょうか。


『安達としまむら』の書き出しにも注目すべきです。
J.ヒリス・ミラー(アメリカの文学研究者, 1928-2021)は、物語の書き出しは、その後の物語の一部を「予弁法的に、あるいは提喩法的に提示している」と分析しています(『文学の読み方』, 33頁)。

つまり、小説の書き出しには、その後も繰り返されるテーマを象徴するものが現れる、ということです。

あだしまの書き出しはこれです。

 一緒に授業をサボっている安達が『ピンポンしよう』と言い出したことが、わたしたちに密かな卓球ブームを生むことになった。

入間人間『安達としまむら』——1巻、12頁。

特筆すべきは、安達という「他者」が原因となって、何かしまむらにとって興味の対象が生まれている、というところにあるでしょう。


またこのように考えると、安達が自転車に乗っていることにも一貫した解釈を与えることができます。

安達と言えば自転車、自転車と言えば安達です。安達の自転車は作中に何度も登場しており、アニメのキービジュアルも安達がこぐ自転車が中央に描かれています。向かい合うようにしまむらが同乗していることにも注目すべきです。

自転車とはメランコリー的世界から非メランコリー世界へ移動することを象徴する乗り物ではないか、と私は考えています。しまむらが安達の漕ぐ自転車に同乗するという構図は、やはり、「他者」をきっかけとする脱メランコリーというテーマの反復であるといえるはずです。


以上のことから、「他者」を契機とするしまむらの「脱メランコリー」が『安達としまむら』最大のテーマとなっているといえるのではないでしょうか。

3つ目の主張の説明は以上です。


お疲れさまでした。これまでの議論をまとめます。

  • まず、「毛むくじゃら描写」は、日常的な意味がはぎとられた、すなわち私が持つ表象の向こう側に「他者」が実在するということを予感させる描写であり、そこにおいて『安達としまむら』において反復される、無限に遠い「他者」というテーマが特徴的に表現されている。

  • 「他者」は、無限に遠いからこそ、「メランコリー」によって無化されない。

  • 『安達としまむら』は、意味を失った世界に生きる2人が、そのような「他者」と出会うことで、メランコリーから脱出する物語である。


以下、あとがきです。
こんな長い記事をここまで読んでくれた人が1人でもいるならば、とてもとてもうれしく思います。感想・反論など、届けてくれたらもっとうれしいです。

本文でも書きましたが、この note の動機は『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』にあります。この本を読んでいるときに直感的に仮説②が浮かびました。

その後、あだしまを読み返しているときに、仮説①が浮かびました。
2つの仮説をぼんやりと頭の中にとどめておくといつか忘れてしまいそうな気がして、それは寂しいことのように思えたので、こうして文章にしました。

今回は2つの仮説の根拠を説明するのに必要な部分にしか言及できませんでしたが、『安達としまむら』について言いたいことはまだまだあります。

例えば、名前について。知我「麻」社の口癖は「うんめー」ですが、「麻」の花言葉は「運命」らしいです。他にも、なぜ島村抱月という文豪の名前が使われているのか、などなど……。主張がまとまったら、そして機会に恵まれたらまた書くかもしれません。

また、ここまで書いてきたことは私独自のあだしま解釈に過ぎませんし、この解釈が最も優れているとは考えていません。

記事の半ばで確認したように、世界は<私>の関心に基づいて姿を現してきます。

この考えに従うなら、これまで擁護してきた私のあだしま像は、(「現代哲学の入門書を参照しながら note を書くぞ」という関心の下、)私にとって現われてくる、相対的な表象に過ぎません。あだしま表象は、際限なく別様でありうるのです。

ただ、相対的なものだけが無造作に存在するというのも、なんだかむなしいものです。

だから今回は、私のあだしま表象がどのようにして立ち現われてくるか、なるべく丁寧に書き残したつもりです。

これを読んだ他者(数年後の自分も、もはや「他者」と言ってよいでしょう)が、今の私のあだしま表象を追体験できるのなら、これを書いた目的は十分に果たされたことになります。

〈参考文献〉
岩内章太郎. (2019).『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』 東京, 日本: 講談社.
Yu. ロトマン. (1979).『文学と文化記号論』(磯谷孝訳). 東京, 日本: 岩波書店.
J. ヒリス・ミラー. (2008).『文学の読み方』(馬塲弘利訳). 東京, 日本: 岩波書店.


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