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私かもめなの。ニーナの叫びは日本語に訳せるのか。

Я - чайка. 私はかもめ。チェーホフの戯曲『かもめ』に登場するヒロインニーナのあまりにも有名な台詞だ。

主人公トレープレフは恋人のニーナを、母親の愛人トリゴーリンに奪われるという寝取られ作品の『かもめ』。
トレープレフは空を飛んでいるカモメを撃ち落とし、ニーナの前に横たえる。振られたことに対する単なる嫌がらせだが、それを見つけた小説家のトリゴーリンは、一人の破滅する若い女性を描く作品を思いつく。この死んだカモメのように、美しく羽ばたいていた女性が撃ち落とされる物語。

その作品はニーナに強い印象を残し、実際にトリゴーリンに捨てられてドサ回りをするような落ちぶれた女優になった彼女は、かつての恋人トレープレフにかもめと署名した手紙を送る。

そして、2年後にトレープレフと再開したニーナは、私はかもめ、いいえ、違う、私は女優。と口にし、精神的にかなり衰弱している様子が誰の目にも明らかになる。

長々と書いてきたが、今回の話題は、この「私はかもめ」という台詞だ。ロシア語を訳すとすると、これ以外に訳しようがないのだが、ロシア語が持っているニュアンスが、日本語にしたときに抜け落ちてしまっているのではないかと、最近ロシア語を教えるようになって考えたのだ。

仮定法という文法を英語の授業で習ったと思うのだが、ロシア語にも仮定法は存在する。助詞のбыを付けて、時制をわざと過去にして間違うことで、現実ではないことを表す表現方法だ。英語でも時制を過去にしてわざと間違うことで違和感を呼び、現実ではないことを表現するが、ロシア語もほぼ同じ構造を持っている。

もちろん、ニーナは女優であれど、人間であって、かもめなわけはない。だから、ここでそのまま、私はかもめ、という言葉それ自体が持つ意味が仮定法のある言語と無い言語では、かなり感じるものが違うのではないかと思ったのだった。

これは、チェーホフの別の作品「熊」でも言えるかもしれない。あなたはまるで熊よ、ではなく、あなたは熊よ! と言われた際の侮辱度は全然違うのではないだろうか。

こうした各言語の特徴的な文法が使われた文章の翻訳について、その意味をより正確に翻訳しようとする場合、どうやって解決できるのだろう。

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