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君だって、ハマベミナミと

「ハマベミナミと付き合いてー」

ハマベミナミ。そうだ、浜辺美波。家庭教師をしていた子が口にしてた芸能人だ。TWICEというKPOPアイドルが好きだった彼女は日本人では浜辺美波が好きだなと言っていたっけ。知らないのと彼女があまりにも驚くので、授業中だけど画像検索で見せてもらった記憶もある。綺麗な顔立ちの人だねと適当な返事をした記憶もある。

「いいね」
「でも俺には無理だな、キラキラした世界じゃないし。お堅い論文書くだけの貧乏文系院生なんか接点も需要もないんだよ」
「なるほどね」

何度この会話を思い返しても、興味ない話題にはぶっきらぼうな返事しかできないこの性格を直さなければと思う。でもそれ以上にあの言葉がずっと僕の心、というより頭に突き刺さっている。

お堅い論文書くだけの貧乏文系院生なんか接点需要ないんだよ」

この言葉が持つ残酷さをどう言葉にすべきか、それをずっと考えていた。なぜ彼はお堅い論文を書く貧乏人には”キラキラした世界の住人”と接点がなくそこで需要がないと思っていたのだろうか。

確かに大学とは世間の人々の憧れとなる著名人で溢れた場ではない。特に文系、人文学に限っていえばその色は強いだろう。ノーベル賞を受賞してメディアでも精力的に活動している山中教授のような人は別かもしれない。文系の学者が世間の注目の的になるとしたら楽しくない話題の方が多いかもしれない。そういう意味では「キラキラしていない」かもしれない。

ここまではなんとなくだが理解を示すことはできる。しかしだからといってなぜ接点がなく需要がないのだろうか。この先を考えるたびに僕はあの発言に潜んでいる恐ろしい差別観を垣間見ては、その親しい友人をどう評価すべきなのかで立ち止まってしまう。

このエッセイはどのような差別意識が、差別に敏感であるはずのとある「頭の良い」文系院生に根付いていたのかを綴るために書かれている。中にはこういった差別があるなんて周知のことじゃん、つまらないエッセイ、と述べたくなる読者もいるかもしれない。確かに当たり前のことを言っている普通のエッセイかもしれない。しかしその時はその差別がまだ自覚できないほど深く根付いているかもしれないことを危惧してほしい。


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なぜお堅い文系の論文は「キラキラした」人にとって需要がないのだろうか。まず「お堅い」というのはどういうことだろうか。彼の専門は人文学とだけ書いておくが、おそらく彼の意味する「お堅い」は難しい口調で難解な意味を持つ専門用語が羅列されているということだろう。例外はあれど絵本や漫画、現代小説は「お堅い」ものではなく、逆にビジネス書や旧い小説は「お堅い」かもしれない。そして「キラキラした」とは先に確認したように、多くの人が憧れる「華やかさ」「美貌」を指すのだろう。

次にいくぶん抽象的なあの発言をもう少し具体的な文章にしてみたい。彼が浜辺美波さんという芸能人について述べていたことを考えるとそれは以下のように言えるだろう。

「俺みたいなお堅い文章を書く貧乏大学院生にはみんなが憧れるような美貌を持つ女性と接点はなくあったとしてもパートナーになることはないだろう」

このように言い換えることができるが、ここにはある問題点(疑問点)があることに気付く人もいるだろう。

みんなが憧れるような美貌を持つ女性はお堅い文章を書かないし読みもしないのだろうか?

つまりあの発言には1つの前提のもとでなされたと言える。

みんなが憧れるような美貌を持つ女性はお堅い文章を書かないし読みもしない

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ここで僕は昨年末に読んだあるコラムを思い出す。タイトルは「なぜ男性’知識人’はエミリー・ラタコウスキーの胸を放っておけないのか」(Why can’t male ‘intellectuals’ leave Emily Ratajkowski’s breasts alone?)というものだ。

ロンドン出身のラタコウスキーさんは著名なモデル、女優で彼女自身その身体に誇りを持っている発言をしている。さらにSNSにセミヌードの画像をあげており「セクシーな女優」として一般に認識されている。(そのため不埒な人という誹謗中傷も受けているらしい)

そんな彼女がチリの作家であるロベルト・ボラーニョのファンであると公言した。するとこの発言に対してアメリカの文芸批評家Thomas Chatterton Williamsは「頭がショートしたよ」と書き記した。彼女の'知的なコメント'と'素晴らしいボディ'という組み合わせに困惑したようだった。

ウィリアムズさんのその発言は文脈からしてボラーニョというニッチな作家を知っているなんて!という感心が込められた驚嘆だったのだろう。しかしその「感心」が大きな問題だった。「セクシーな女優」がニッチでどちらかというと高尚な小説家を知っていることは意外なことなのだろうか?

そのため先のコラムは挑発的な文句から始まる。

胸がデカいうえに本を読むことは可能なのだろうか?」(Is it possible to have big breasts and read books?)

そして僕はこう思う。

みんなが憧れるような美貌を持っているうえに本を読むことは可能なのだろうか?

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あの友人の発言に戻ろう。そこにはある前提が組み込まれていると指摘した。

みんなが憧れるような美貌を持つ女性はお堅い文章を書かないし読みもしない

そしてあるモデルの読書という趣味に関するコラムを紹介した。もう多くの人が感づいているだろう。

みんなが憧れるような美貌を持つ女性だってお堅い文章を書くかもしれないし読むかもしれない。確かにあの友人が書く文章は広い人文学の世界の中でも一部の人だけが知っている分野だ。でも、だからといって浜辺美波さんが読まないとは限らない。ラタコウスキーさんが異国の作家のファンであったように、浜辺美波さんだってあるニッチな学術分野の読み手・書き手かもしれない。

もう誰の目にも明らかだろう。視点を変えるならば、あの友人にはみんなが憧れるような美貌を持つ女性はお堅い文章なんて読まないという固定観念があったといえる。そしてそれは差別的偏見を生み出す’常識’だ。

女性は頭を使う難しいことをしない(できない)
美人は頭を使う難しいことをしない(できない)

彼は自らの孤独を嘆いたつもりでも陰湿な差別的発言をしていたのだ。僕はこの結論にたどり着く。そしてそれと同時に、立ち止まってしまう。色々な声が聞こえてきては口を閉ざしてしまう。

「言いたいことは分かるけど、考えすぎだろ」
「そんなつもりはなかったでしょ」
「またリベラル左翼が喚いてる」
「めんどくさ」

だから僕はエッセイに書き記した。

何を?
この感情を。

誰に?
友人に、世間に。

なぜ?
悲しいから。


ごめん友人、でも君は間違っている。
君だってハマベミナミと付き合えるんだよ。


2021年1月17日 文責:D

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