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不耕起栽培2度目の冬(実家)

一昨年の夏は、葉っぱの丸いつゆくさが一面を覆っていた畑。
ネットなどを参考にしながら、草マルチをして、一年半たちました。

ここはもともと、母が耕していた畑で、普通に化成肥料や堆肥を入れ育ててきた場所、でも、父の看病が大変になりその父が亡くなってからは、耕作放棄状態となっていたところでした。なんとなく畝らしきものが残っているところを耕しもせず、少しばかり通路を広げて、チマサンチュなど植え始めたのが一昨年の秋。
その冬には、畑には必ずあるもんだと思っていた春草のひよこぐさやいぬふぐりがはえてもこないことにちょっと驚いたのですが、ことしは枯れ草のあいまあいまからこれらの春雑草が地面に張り付くようにして広がっていて、ひとまず安心。

元肥もなく、耕しもせず、たまに米糠と雑草堆肥を入れるだけの不耕起の畑は、やっぱり母の畑に比べると野菜の育成も悪く、味も苦かったのですが、なによりの収穫は、母が私のやり方も認めてくれるようになったことかな。互いの畑の収穫を楽しめるようになってきています。 それでも、この土、今年の冬は去年とは少し違ってきているように思います。去年は、乾燥が続くとひび割れていた土でしたが、今は枯れ草を退けて土にふれると柔らかさを取り戻しているよう。この中で、最小の生き物たちがネットワークを作っているのだと思うと楽しい。ミミズはまだあまり見かけないから、いっそ、うちの庭から連れてこようか、もう少し様子を見てみようか。

きらんそう

畑のすみにはきらんそう(別名じこくのかまのふた、だそうな)も葉をひろげていて、連日0度以下になっているこの寒空のなか小さな花も咲いていました。けなげ。

今回は、去年堆肥場にしていたところを小さな畝にしてみた。ここは牛糞とくんたんを入れて。

耕したところへさっそくやってきた小鳥(なまえがわからない)


あと、元田んぼの一角に通れる道を作った。ここにラベンダーを植えたいのさ。

実家は梅盛り。

もしも、この場所に専念できるのだったら、迷わず自然農をしているだろうと思います。去年一年で、多くのことを学びました。「サピエンス全史」という本を読んだ時に、農業が自然を破壊してきたことを読み、不耕起栽培が選択肢の一つとしてあちこちで取り上げられているのを見てワクワクしたり、自分でこうやって土に触れてみたり。除草剤を撒いたり耕運機で耕すと、自然が反撃するように、強い種だけが倍返しで繁殖してくることや。この生々しさは触れてみて初めて実感した、生命の尊さ。正直、面白い。私は自然が好きなので、自然に対して責任もある気がしてます。

けども。
今の自分の仕事ととどっちかを選ばないといけないとしたら。
というか、本当はもっと仕事のほうに時間をかけるべきなんだと思っている、こっちも水脈のようなものがあります。
もし、どちらかを選ばないといけない時期が来たら、私は仕事の方を選ぶのもわかっていて、それで、どちらに対してもこれからどうなるんだろう、と不安に思ってしまう時もあります。

幸いにして姉もいるので、一人で抱え込まなければいけない問題ではないし、誰かにあの場所を委ねる時には、農業のやり方も、その人のやり方に委ねるつもりではいるのです。
姉も母も私も、おそらく一番に大事なのはあの景色かもしれない。ほんといい場所。

いまは、できる時に行って、できることをしてくる。
土や植物の反応が返ってくるのは、なにより私自身にとって、よい浄化作用をもたらしてくれているから。

というわけでいつまで続くかわかりませんが、まだしばらくは続く、の、実家報告でした。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!