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無意識が言葉に乗って出ていってしまう

ひとりごとが漏れる

私のひとりごとは、無意識との関係の雑さがあるように思うのです。

独り言が多い、というより、常に喋っている、というくらいです。
歳をとったことや、一人の時間が多いこと、いつも猫に話しかけられて返事していること、などが重なって、近年はさらに多くなってきている気がします。
これは、自分の無意識のコントロールがゆるくなっている一つのサインかもしれない、と思い、これから向き合っていこうと思っています。
今更、なのかもしれないのだけれども、
自分、まだまだどころか、あまりに不甲斐ない、という出来事があり、
無意識ともう一度向き合わないと、と、考えているこの頃です。

心理傾向と、無意識・言語の癒着

ネットで独り言で検索してみると
”独り言を呟く人は、不安が大きい”
”寂しい人は独り言が多い”傾向にある。
と、判で押したようにめくるページめくるページ同じことが書いていて、
それ以前の問題なんやけどな、と独り言を言って、パソコンを閉じました。

確かにそういう一面はあると思います。私自身も。
言葉にして確認しなければ気が済まない、とか
言葉にして、不安をまぎらすとか。

いや、でもついさっきもちょっと気をつけようなんて思いながら運転していて
「あらー、こんなとこに新しい店ができてるー」
とか呟いていて、あちゃー、ってなりました。
あまりにもどうでもいい独り言。

不安や、寂しさ、確かに、でもそれ以前に、思ったことがすぐに言語化されて自分から出ていってしまうというのは、そこにとどまっていられない、そういう場所が脆弱なのかもしれない、そっちの方向をなんとかしないとな、と思っているのです。
不安や寂しさは、それはそれ、別項目として向き合うとして。

大丈夫ごっこ

ちょっと話はずれるかもしれないけれど・・
うちの母は私がなにか言ったり行おうとすると、必ずと言っていいほどちょっと絡んでくるように
「それ、大丈夫?」(2回ほどバウンドするイントネーションで)
と聞いてきます。
例えば高速道路に乗る、ちょっと崖近くで作業する、とかいうような、まあ確かにちょっと気をつける必要はあるのだけれど、だれでもするやろ、というようなことでも。そうして、できればやめさせようとするので、では、わたしゃ、1日なんもせずにテレビでもみてればよいのか、残念ながら、私はまぐろ、止まったら死ぬやつ。と、まともに聞いてしまうとあかんので、そのときどきで、適当に返事するのですが。
ただね、そうか、母も無意識に不安が口をついてでてきてしまうんやな、と。
歳をとってますます不安な気分というのはおおきくなっていくもんなんだろうか。
そして、気がついたら、私もいつも口をついて「大丈夫?」と人に言ってしまっている。受け継いだのは口癖なのか、不安のほうなのか。
言葉が問題なのか、関係性か。

そんな話を一緒に旅行した友人にして、「大丈夫」をやめる、と宣言したのですが、旅行の途中も1時間ともたないうちに「大丈夫?」を連発していて、やめると言っても簡単にはやめられないことに気付かされ、苦笑い。
無意識とことばの癒着、とでもいうか、ことばがすでにことばの姿をしていないまま、発せられる、けれどもそれは他者にしてみたら、意味のある言葉なわけで。そしてそこには無意識に相手に同化して癒着している感情が漏れていて。それは相手が一個の人格である前に自分にとっての誰か、なわけで。本当に相手を一人の人として接している言葉ではない。いつもではないけれども、そういうことが多い、そういう反省がおおいにあります。

そうか、問題は発せられる言葉ではなくて、この癒着にある。

無意識と言葉の間に風を

パソコンを開けてもう少し「独り言」の検索をスクロールしていくと
”独り言は自分を鼓舞したり、あんしんさせるメリットがある”
”独り言は思いついたことをすぐ言語化できる優れた力"
というのがでてきて、まあ、そいういうメリットもあるのかと思います。

ただ、私は、無意識に言葉が持っていかれるのはもう嫌だなと思っているのです。
というか、不安という生きものを、ちゃんと自分の中で飼い慣らしたいのです。
修行やな。

癒着しているものをやわらかくして、空気を通して、脆弱なフィールドに小さな花を植えて、荒地を心地よい庭にしたい。
いずれにしても、自分の失敗にはもううんざりだな。
変わりたいと思う時にぐちぐち感情に飲まれるよりは、考え続けたい。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!