お返事です。
質問ありがとうございます!
音楽描きの武さんから、こんなナイスな質問がありました。
とっても嬉しかったです。それで、この質問に答えようと思ったら、いろんな答えが湧いてきて、あれあれ、とてもtwitterでお返事できないや、と思いました。
バッハのこの曲だと誰が描いてもこういう絵になるなど顕著な傾向って有るのですか?
音楽っていろんな切り口で捉えられるから、どれが間違ってるでも正しいでもなく、ほんとにいろんな答えになってしまいます。でもでも、武さんは同じ「音楽」を「描く」同士、そして、広い視点で音楽を捉えようと模索されておられる方なので、これはちゃんとお答えしたい、ぜひそうしたいと思いました。なんか、シンプルにこたえられそうで、できなかった。長文で申し訳ありません。
まず、どんな曲でもいいので、ちょっと思い出してみて、これは上向きの線ではじまるか、下向きの線なのか、みたいな、遊び、やってみてください。きっと面白いですよー。基本的には、utenaのドローイングも、子供の遊びの延長なんで。誰かと感じ方を話し合ってみるのも楽しいですよね。それを突き詰めてったのが私のワークになります。
ワークショップの現場で
私は実はあまり「絵」という言葉を使わないんです。
出来上がった絵のところではなくて、描いていることで、まさにその時間のなかの解像度を上げることでやり取りをしています。だから「音楽を描く」と動詞なんですね。私が興味があるのは絵ではなくて動線です。なので、出来上がった絵がもし同じ形になっていても、その人たちのプロセスが同じとは限らない、という目で観察するんですね。速度や筆圧や。逆に、全然違う絵になっても、ある人が追っていた線が、別の人だとこうなるのかー、これとこれは同じだー、となることもあります。
でも、例えばバッハの平均律の1番のプレリュードなんか、よくワークに使うのですが、うまく捉えられなかった人が、その流れをつかめる様になるときって、なにかその曲特有の質感を掴んだときだったりします。そういうときは、だんだんに互いが似てくる、ということはありますね。動き自体が。そうゆうふうに誘導することもあります。
でも、動きが同じで、フォルムが似てきても、ちょっとした曲率が違っていたりするんです。それはその人の身体的なものや気質なんかも現れてくるので、その曲とその人との間に生まれた動きなのです。それでもそれらが連動しあってるのを見ると楽しいです!
それは、みんな一斉に同じ口を開けて同じ声で歌うコンクールみたいなのじゃなくて、互いがやり取りするセッションに近い感覚に近いと捉えていただけるとわかりやすいかな。そういうところを目指してドローイングをしています。
ここまではワークショップのときの話。
楽曲や作曲家の傾向はあるか
じゃあ、この楽曲特有の動き、誰が描いても同じ結果になる動きというのはないのか、というと、ないとは言えない、というか、そこの普遍性を求めている、という側面もあります。あるいはその作曲家特有の動きがあるのか、と問われたなら、あります、と答えます。また、西洋音楽、という大きなくくりのなかでのこう描けるはず、というものもあります。
私の個人的な体験でいうと、例えば、モーツァルトの「春への憧れ」という声楽曲を何度も描き、演奏し、を繰り返しながら、そのグルーブみたいなものを掴む、という遊びをしたときの体験。あれは、あとあと、しばらく経ってモーツァルトを演奏したとき、モーツァルトとしての自然な流れが無理なく入り込んできて、それは響きやテクニックにも当然絡んできて、すごくいい体験でした。ああ、モーツァルトってこうやったんやね、みたいな。
あ、HPの記事にバッハの小品を扱ったのがあったのを思い出したので、貼り付けておきますね。
https://utenamuse.mimoza.jp/2018/05/27/bach-bwv812allemande/
でも一方で唯一の正しい描き方っていうのは個々人の体験を奪うとても恐ろしいことだと思っているので、でも往々にしてそういう話になっていくので、私はそれを慎重に避けて行かなければならないとも考えています。
多様性と普遍性、普遍と個の繊細な関係がここにあるのに、
それを塗り潰して捉えることはできません。
西洋音楽って何?
音楽ってなんだろう、ということをずっと考えてきました。
音楽っていうのは、とっても広く深くて定義が難しい。
これが音楽、と言い当ててしまったら、それはもう一面的になってしまうもの。
でも、「音楽」で人と人の対話はキチンとできるから、
獏とした音楽という共有可能な総体はあるんでしょうね。
音楽ってなにか、というと、それは音として物質界に存在していながら、”人の体験”の中にうんと食い込んでくるものなんじゃないかと思います。
そういうことを前提としながら、バッハを生んだ西洋音楽って、じゃあ何か、ということを考えたいと思います。
私は、時間の中に空間性を数学的に埋め込んでいったものさしをもっているのが西洋音楽だと思っています。あと、同時多層的な感覚とカップリングで生まれてきたハーモニーがあります。それから、長調が明るく、短調が暗いというような組み合わせで人の感情を映し出せてしまうところ。
西洋音楽はその多相で立体的なところがまんま生命なのですが、ワークショップの中で描くことができるのは、一本の線なので、それぞれの一面的な要素に過ぎません。如何にその一本で生きたまま、要素を取り上げることができるか、というのが勝負になってきます。
その要素を動線で体験しながら、音楽の様々なフェーズを作っていく、時間のかかる作業です。でも、わけられたフェーズはそのままでは、総体としての音楽にはなりません。最終的に「音楽」を編み上げていくのはその人の直観が働くときだと思っています。
バッハってなにか
絵の話は少し脇へ避けといて、なのですが、
バッハの正しい演奏、って有るのかな、ということを考えてみました。
バッハはよく「対位法」という技法を使います。というかその当時はそれが一般的だったのですが。対位法は簡単に言うと、いくつものメロディが彩のようになっている、輪唱のややこしいやつです。このややこしい対位法、昔はもっと素朴な掛け合いでした。教会で右と左に別れた歌い手さんたちが、同じ歌を言い交わす(アンティフォニーといいます。)そこで、一体人はどんな体験をしたのだろうか・・私はそんなことばっかり考えて来ました。だから、私は、バッハの対位法も数字的なものではなくて、素朴な体験の体感ががやっぱり残ったままの演奏を好みます。演奏する人が、それぞれのメロディを実感しているか、どういうふうにメロディを捉えているか、メロディの交差として俯瞰的にとらえているか、構成が見えているか、それとも、ただ楽譜を追っているか、は聞き手によっては、一瞬で見抜かれてしまいます。これは対位法というところに焦点を当てた場合、ということです。
でも、じゃあ、対位法が実感としてよくわかっている人間が正しい演奏をするのか、というと、それもなんか違うと思います。そもそも正しい演奏、というのがおかしいですね。
全然別のフェーズで、なにか直感的にバッハの本質的なものを体現する人がいるかもしれない。
演奏はその人が何を捉え、どれだけそれが普遍的要素を持っているか、それが見える時に魂を捉えるような演奏になるのだと思います。
また、バッハを演奏というスタイルではなく、絵画として生み出せる人がいたら、それはあり得るなと思ってます。
ああ、余談なのですが、シュバイツァーがバッハの研究家でもあったことをご存知ですか?そのへん掘って見られるととっても面白いと思います。シュバイツァーは生命論理、みたいなところもすごく深く探求していました。
普遍と個、それと、戦うべき相手について
utenaのドローイングは、動線によって人と音楽を共有しうるものにするべく、いくつかのわかりやすいパターン的なものもあります。例えばそうしたものをAIに読み込ませて、これがこの曲だ、という結論的な答えをだしてしまうこともできなくはないだろうと思うんです。これはむちゃくちゃ魅力的です。でも、私はこれが怖い。utenaの命題は、音から音の間の解像度をあげること、それを個々人が納得がいくまで気長にそのプロセスを待ち、一人ひとりの音楽体験を耕していくことだからです。
AIでなくても、例えば、先生がいて、個々人の体験のプロセスをみないまま、個々人に従わせる(良かれと思って)ということは、もうとっても簡単に起こり得ることだし、私自身うっかりすると、やってます。
でも、これを世に出してしまった人間として、なんとしてもその方向に行かないようにしなければ、と思っています。
また、共同幻想、というのもあるでしょう。みんなが盲目的に、こうだと信じ込む。いかにそこからのがれながら、感覚を開きながら、個々人の体験が、普遍とつながっていけるか、それが本当にこの方法に意味が有るのか、問われる場所だと思っています。
再び子供の遊びにもどる
結局えらい奥の方まで書いてしまいましたが、
最初に書いた、この曲は上向きではじまるか、下向きで始まるか、誰かとやってみて、一緒だったら嬉しいし、違ってたら、何聞いてたんかなーって話になるかも。
そうやって、轍にはまってったのが私で、冒険の扉はどこにでもあって、世界ってほんと面白いなーと思います。
武さんが尋ねてくださったおかげで、私自身もとっても整理がついてよかったです。ありがとう!!