sketchかdrawingか

全体性へのイメージが自分を運んでくれる

ごく基本的な音楽のしくみを体験する

昨日書いた、「トリセツ・カラダ」という本に共感したのは、全体性をおぼろげながら理解していくことが、いつか役に立つ、というそのとらえ方でした。

私は「音楽を描く」という音楽講座を時々開いています。この講座は音楽を動線でやりとりし、実感を深め、演奏につなげる、というものですが、最初の段階で楽しい、というのを味わった次の段階、受講者さんが自分の演奏にそれをつないでいきたい、と思ったときに、なにか、うまく具体的な進歩に繋げられない、ということも起こります。
そういった様子を何度かみてきて、ドローイングを生かすためにドローイングでやろうとしている音楽のしくみのほんのごく基本的な体験を持っていていれば、もっとわかり良いのに、と思っったのでした。
そうして音楽リテラシーという講座が生まれました。

音楽のしくみのごく基本的な体験、、てどういうことかというと、
おぼろげながら、自分がこれからやっていったらいいことが自分にみえてくる、それが、希望になっていく、そんな体験です。
そうして全体性へのイメージができてくるとよい。

ここで言う全体性の定義

●おぼろげながら、大枠のところでやっていく範囲がザクっとイメージできること。
●それと同時に、細部の生きてる感じがつかめてくること。
●今やっている一歩が、そこへつながっていくプロセスがみえてくること。
●そして自分自身の頭・体・心という全体性を使って「体験」”やっていること”と”感じていること”と”知っっていること”が一致していく体験(個人の側の全体性)を最初から培っていくこと。

ここでいう全体性の定義というのはこんなところです。

そして、今思っている全体性は少々間違っていてもいいし、大雑把すぎてもかまいはしないのです。
でも、なんかそういうイメージがふわっとあると、自分が今いる場所から一歩先へ踏み出してみることができます。踏み出してみて間違っていたら修正していけばよい。
でも、それがないと、踏み出すということがそもそも空を踏み抜いてしまうことになっても気が付けない。
だから、なんとなく全体はこんな感じというのが必要なんだと私は考えています。(そこの辺の内容の具体的なところは、まさにこの講座の中身なので、言及はここではしませんが)

そもそも音楽にここまで、なんていうことはないはずです。
だから、全体性、というものがいつかガッチリつかめたり、理解できたりする、なんてことは思わないほうがいい、おもわなくていい。
逆に修正していくものだ、という前提は必要です。でないと最初につかんだイメージに縛られてしまいます。

そこさえ気をつけておけば、自分の一歩の足元を、まだ見ぬ音楽のさらなる深みが照らしてくれる、音楽と相思相愛の関係がうまれてくる、そして全体性はそれ自身も成長していくものだと感じています。

今日はその音楽を描く、講座と音楽リテラシー講座でした。次は10/13です。
明日は音高が不安な人のための「音楽を描く」講座。
詳しくはHPを御覧ください。
ドローイングを使った音楽講座

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!