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土が変わると空気も変わる

少し前の、庭の様子。
手入れはほとんどできない。
新しい苗もほとんど足していない。
(黄色いダイヤーズカモミールくらい)
ドクダミは、もう、庭中ないところはないくらいに生えてきてる。

アナベルと白い葵

でも、もうそこに居着いている宿根草と、
毎年零れ種から伸びてきて彩りを添えてくれる、
一年草が、もう人の手を超えて
互いに良い場所で響き合うように、折り重なっって枝を伸ばしている。

庭は去年くらいから空気感が変わってきていて
思いもかけず、なのだけれど、それ自体が息づいているような
いい雰囲気になってきている。

樹木や草木自体の息遣いが伝わってきて、
ちょっと怖いくらい、
生き生きとしている。


植物がそこになじんていること。

実家の畑を世話しなければならず、
以前のように、バラに肥料をやったりとか、まめに草取りなどはできない。
実家の方を自然農で育てているのと同時に、
うちの庭も、雑草は地上部を刈り取って、そこに置いておくだけにするようになった、それが、この空気感の秘密なんじゃないかと思う。
木の枝なども、
敷地の隅に水路がわりの穴を掘って、そこに埋めるようにしている。




光と、影と、水の通り道と、風と。
それだけがきちんと整えられた庭に少し、
庭の方が整い始めているのかも。


人の存在意義を思う。
もちろん、ここに一つ一つの植物を連れてきたのは私で、
自然に任せたものではない。

こういう圧倒的な自然の営みと小さな自分を思うとき、
いつも思い出すのは、
箱庭療法にユング心理学を取り入れた
ドラ・カルフという女性が言ったという
「ピカソの一筆」だ。
自然に竿刺すのではなく、余計な力をかけて形を上乗せするのでなく
そこに芸術的な一筆をそっと加える。
それができる人間になりたいと思う。
そう、何事においても。
もういい年なのだからね、その生きてきた年月も助けてくれるだろう。

実際にはどうかというと、最初に無計画に植えた大きな植物たちの配置は
かなり良くなくて、根詰まり気味だ。
でも、それをしてしまったのは自分だから、
その不自然さも理解しながら
時間がないなりに、世話も時々忘れないでしてやりたいと思う。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!