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味付けの的(まと)

火にかけた雑煮の汁の味見をして、ちょうどよいか、ちょっと薄いか、という感じで、なんだかちょっと少したしたのでは不安な気がして、多めに入れたのがいけなかった。お餅は美味しく食べられたのだけれども、汁を飲み切ると、濃くて、なんか残念感が残った、昨日の出来事。

今日は、生徒の会計名簿を手書きしていて、ノートに定規を当てて線を引くのに、なんだかスッキリと引けない。目は確かにこの頃霞んできている。むむむっとおもって、メガネを外し、もう一度引きなおしてみた。視力のせいというよりは、物差しの端と端をちゃんとみていなかったことに気が付く。

これは歳のせいか?
いや、でも、美味しいものは美味しいってわかる。
単に鈍くなってるんだったら、雑な味でも良くなってくはずだから、
単純に鈍くなっている、ということではなさそう・・

目は確かに最近、よく見えとらんな、と思うことが増えてきていると思う。
でも、今日気がついたのは、感覚器官の劣化よりも深刻なのは、何かを見極めるマトが緩んできていることの方だ、ということ。この現象は静かに、もう何年もまえから始まっていたような気がする。問題は認知機能のほうだ。視力のマトがぶれているのがデフォルトなので、いつのまにかそれを治そうともしなくなってきていたのだ。

若い頃は敏感すぎる自分がきつかった。
できれば、もう少しまろやかな感覚であれば、とおもっていて
ある意味、歳をとって救われた部分もある。
そういえば、最近怒るのもめんどくさい、と思う時もある。

この先に、ブレーキとアクセルを踏み違えたりする症状に繋がっていったりするのだろうか?確かに若い頃と今とでは、身体も変わってきている。
でも、その変わってきている身体を実は脳がわかっていないのじゃないだろうか。

でも、歳のせい、とも言い切れない。
実例として母がいる。
小さい頃から弱視だった母は、今もきれっきれの感覚を保っている。
目に頼れないから常に他の感覚が研ぎ澄まされているんだと思う。
そういうのが身近にいるから単に加齢のせい、とも言えないな。

もう一度まとを見つけてく必要があるのだ。
この変化していく身体に沿うように。
いままで、無意識でいたなにかを、少し意識的にしていく必要があるのだな。

味付け一つで、将来の事故を防げるかもしれぬ。
というか、この先も自分は自分でありたい。

・・・
夕飯の支度、
ふっと息を吐いて、目を閉じ、
火にかけた味噌汁の味見をした。
いつの間にか少し濃いのが当たり前になっていたな。
軌道を修正していこう。







愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!