見出し画像

コロナを制する庭師

バイカウツギに潜んでいたアブラムシ

今年もバイカウツギの葉っぱの中に、いくつか先がクシュクシュっと縮れたのがで始めました。
これはアブラムシがついてる証拠。毎年、手でちぎって捨てるのだけれども、アブラムシはどんどん拡散していって、かなり木を痛めてしまいます。
きょうは、なにげに葉っぱをかき分けて幹のところを見てみて、あ、そういうことだったか・・・毎年毎年、きっとそうだったのに今日はじめて気がついたのでした。

葉っぱが縮れる前に、すでに幹の方にアブラムが繁殖してたってこと。

バイカウツギは一年で2メートルくらいはピーンと伸びてしまうから、毎年選定をします。伸びてるのの途中でチョキンときると、そこから、幹はなにくそとばかりに、枝を2本、3本と立ち上げてきます。それらが、密集してしまうことで、幹の中の通気が悪くなってしまう。虫が繁殖しやすい環境ができてしまっていたのでした。これは、自然界では起きないことで、もし枝が半分で切られるようなことがなければ、バイカウツギはのびのびと枝をどこまでも真っ直ぐにのばし、その先端で小さな枝をお行儀よく並べ、花を咲かすのです。当然、しなやかに伸びた幹は絡み合うことなく風にそよぎ、害虫に必要以上に食い荒らされないはず。

剪定という人の手に抗うように樹形が乱れていく、生命とはそういうもの

ちょん、と切った枝。

その切節から、熊手のように何本もの枝が生えて来る。
生命っていうのは、ダメージを受けると、逆に俄然燃え上がる。そういうものなんだ、と私は庭から教わりました。そして自然の勢いをそういうふうに断ち切ってしまうと、倍加した生命は本来のシステムを変えられないゆえに、そのまま突き進んでいきます。

葉っぱをかき分け覗いた幹部はそこここから枝分かれしたのが絡み合って密集していました。赤い斑点のアブラムシはそこから発生していて、葉っぱに少し現れてきたときにはもう、かなり被害は進行していた、というわけ。
今年は、早くにそのことに気がつくことができたので、枝を間引きすることにしました。早速枝に触れると、去年切った節の生え際から手、ホロリと軽く折れてしまいます。枝の流れを確かめながら、そうやって枝を半分くらいまで落としました。それで風が通る。

この作業を秋までしないできたのが 去年までの話。そして、アブラムシにやられた枝を切り詰めて。

すまんな、バイカウツギ。今年始めて気がついたよ。
残って風に揺れる枝にはアブラムシの天敵のてんとう虫がひょこひょこ登ったり降りたりしていました。あとのこったアブラムシはこの子たちが食べてくれるでしょう。

風をとおす、ということが大事なんだ、という話。

風を通す。生命は地続きという話

昔、この庭を始めた頃は、自分の好みで木を植え、花を植えていたのですが、毎年うどんこ病がひどい。農薬を使いたくなかったので、いろいろ調べるうちにうどんこは空気が淀むと繁殖する、ということを知りました。樹液を吸うワタムシなんかも風通しが良くないとワシャワシャ繁殖します。菌にしろ虫にしろ、風の通る庭には、必要以上には繁殖しない、それで、庭に道をつけることにしたのでした。うちの庭の道は人が通る、というより、風の通る道なのです。

画像1

葉っぱたちが程よく風にそよぐ距離を保つこと。

10年ほどかけて、気をつけてきたことでした。でも、バイカウツギみたいなことはまだまだ起こる。まだまだ庭に教わることがあるってことだな。

そして、生命というのは庭のように、どこまでも地続きなんだということ。

画像2

日本の庭師

庭が教えてくれたことはふたつ

生命はせき止められると、倍に勢いを増すということ

適度に風が抜ける空間が庭を健全に保つということ。

コロナウィルスという生命のはしりのような存在にも、まさにこれが当てはまっていたわけ。

コロナ対策として「蜜を避ける」というのを私は「風を通す」と訳したほうがすっと入ってきます。

そして、日本の都市が「ロックダウン」しなかったことの、正解を私は信じてます。ロックダウン、と聞いて、私はあのせき止められた生命を思い出しました。人が自分の意思で留まって、周りの風を通すことと、分断し、遮蔽することの違い。

日本は昔から生命に独特の感性をもっている民族で、匙加減が、絶妙にうまい。私は、日本という国はきっと見えないところで働く良い庭師に恵まれてるんだと信じています。それも一人や二人じゃない、生命感を共有して働くたくさんの庭師たちが。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!