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道具を奏でる

紫陽花の剪定の時期なので

今朝、久しぶりの晴れた朝で、紫陽花の花を刈り込みをしていて、
剪定鋏に力を入れすぎていたことに気がついて、ハサミの重みに任せて細く少し早く描くように、力を入れずに、動きだけで紫陽花の茎に触れてみたら、す-っと空気をきるように紫陽花が切れました。

紫陽花は茎が空洞になっているから、実は本当に力なんかいらないんです。
でも、とっても切れないハサミだったし、「力で切る」ことを習慣にもしてきてしまっていたのだと思います。

す-っ
この感じ。

ああ、これ、今のうちのdiapasonの鍵盤だ。
(調律をしてもらってすでに少しづつムラが出始めてはいるけれど。)
きっと私の身体は、ピアノからそのヒントをもらったんだなと思います。

ものに対峙するのではなく共鳴体になること

うちには勿体無いくらいのいい調律師さんにみてもらっていて、その腕に愛でられた鍵盤は、いくらぶつけても音は響かないで固くなるばかりなのに、深い水に手を差し込むように、鳴らして掻き回すと、どこまでも伸びる音になります。

まだ、
聞こえてない音があるかもしれない、
と、耳を澄ませると、
音がリアルに近づいてくる。

そうすると、弾く、弾かれる、の関係は曖昧になり、本当の意味で「音を奏でる」になるような気がします。
どう刈り込もうか、という余計な力が抜け落ちていって、私とピアノという物体と作曲された音楽がカップリングされていく・・

今、ピアノの練習といえば、もっぱら
このdiapasonの音色で音を紡ぐことに夢中で
曲が一向に仕上がらない、でも、とても大事な何かを
教えてもらっている気がしています。

おもえば、ピアノ弾きはピアノや空間と対話するのだけれども、園芸や農業というのは沢山の道具と対話しながらやっているところがあります。
私と剪定鋏と紫陽花も、切る・切らせる・切られるではなくて一つの動きを描き出すような。
せつなの響き。

かたや、道具として最高のメンテナンスを受けているピアノと、ボンクラの剪定鋏。

そうか。同じだったんだな。

そろそろ捨てようと思っていた剪定鋏でしたが、
これで学ぶことが色々まだありそうなので、
続けて使っていることにします。



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