utena.m.f音楽を描く’愛媛講座 2020.1014
utena drawing のワークショップも、東京での開催がままならず、唯一行えているのが、この愛媛の定期講座のみとなっています。ここは時々抜けるときもあるけれどだいたい一月に一度やっていて、多分4年目くらいかも。
参加者さんの、「楽しみにしてますー。」といただくラインのありがたさ、無邪気さ、に対して、私のほうは、逆に責任感をまっとうできるのかな、などどたちどまってしまって、お休みにした8月。とりあえず、9月、10月とやってみて吹っ切れた感じがします。
この愛媛でのドローイングワークだけでなく、ピアノのレッスンなどでもそうなのだけれども、伝える側としては、”前回よりもより深まって、理解が進んで、身体にも浸透して・・という積み上がりを期待されている、”と思ってしまうし、それに答えることが責任を果たすこと、と力が入ってしまいます。一回、一回それが前向きに進んでいく最低条件、みたいな。ときと場合にはもちろんそれも必要なこと。だけど、へんに真面目なところがあって、すべてにそれを適用してしまう・・それは自分のいいところでもあるけれども、ときに大事ななにかを見落としてしまうこともある、と気づいてもいるのです。
・・・
音楽を描く’には2つの方向性があって、
一つは学習として、
もう一つは感覚をくすぐる遊びとして。
この2つは、くっきり2つに分けられるものではない、ということ。
まあまあ、人って複雑なんだから、逆に、それはシンプルなことでもあって、自分でこねくりすぎて、考えすぎていたのかも。
同じことを、何度も繰りかえす、というのは遊びの醍醐味。
子ども達をみていると、遊びってそういうもので、わらべうたでもピアノでもドローイングでも、この「繰り返す」のつぼにはいってくれたら、大成功なわけです。
大人だって、無邪気にいつまでもドローイングしてたっていいわけで。
(こうやって、画像をあげると、さらに最初っからなんもかわってないように見える・・・)
むしろ、なにかを積み上げなければならない、ということは、それが参加者さんにとって本人のためなのか「先生」のためなのか・・・そうなってしまったときにはきっと大事なもののほうが見落とされていくのかも。そうなると、いわゆる結果主義、できる、ということの方にシフトしてしまう。
ところがありがたいことに、私より年長の皆さんは、腹もすわっていて、経験も豊かで、でもとっても柔軟性をもっておられるので、私の「指導」を柳のようにしなやかに受け取り、しなやかにつつかわしつつ、自分をしっかりと見つめておられるので、ああ、そうやったんか、と学ばされるのはいつも私のほう。
その中で、あらためてその人その人の中で発酵していくもの、
それを具に見せて頂いた、今回。
一番上のランダムに並べた動線は今回描いたもので、「綺麗に描こう」という意図ではなく、「私はこれでいいのよ」でもなく、音と自分とを重ねていくことに集中できているのがわかります。同じものはなく、微妙な歪みがあり、迷いなんかもある。実際、これができるまでが、とっても時間がかかることなのかも。
そして、それはなんのために。
・・と、それを考えるのは私ではないのだな。
もし、つまらなくなったら、参加者さんは来ない、という選択だってできる。解散して終わりにするのも全然大変なところじゃない。
余計なことかんがえずに、そのとき、 今、
ここで行われることが、音楽であること、祝祭であること。
私はそれに専念していこう。
ワークをしたあと、今回のワークで使った「亜麻色の髪の乙女」を最後、演奏だけを好きに聴いてもらいました。
なかのお一人の、窓を眺めながら、心で描いてた。風に不思議と連動したり、メロディにあわせて見上げたら空が青かったりして、楽しかった!
という感想。
もうもう、私のほうが報われるようなうれしい感想でした。
暮らしと音楽が延長じょうに 重なる、というのは、私はまさにそういうことだと思っているから。受け取ってもらえてうれしい。
頂いた、四角豆。
天ぷらが美味しいとおしえてもらったので、仕事がおわって9時前に天ぷらしましたよ、美味!
動線が音楽を伝える道具「音楽を描く(utena drawing )についてはこちら。
今も時々300円体験ワークショップ売れてて、上げてよかったなあと思います。音楽リテラシーワークブックのほうが順調に流れていけば、またutena drawing のほうも上げていきたいです。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!