「線は、僕を描く」を読んで
線は、僕を描く。
この題を見つけたとき、私は即座に自分のワークのことを連想したと同時に、ノヴァーリスの”森羅万象の相互表象説”を思い出しました。
宇宙の万物はたがいにみな表象しあっている。
と、彼・ノヴァーリスは言いました。
そして、実際この本の随所に差し込まれた、この青山という心を閉ざした青年に語りかける水墨画の師匠・湖山先生の言葉には、ノヴァーリスの引用かと思える表現が幾度も出てくるのです。
この小説は、両親をなくし、自分の内的な時間を止めてしまった青年が自分の生きる術を見つけていく話であると同時に、その生きる場所である”写意”に行き着くまでのプロセスを読者に共有させながら、その”写意”とは・・ということを展開していきます。”写意”(花に教えを請い、そこに美の祖型をみること)へいたる人の心のプロセスを紐解きながら。
最初、湖山先生は、水墨画のずぶの素人である彼に、模写からではなく、自由に線を描く事から始めました。
先生は言いました。
これ、私もよく思うときがあります。音楽をやっているとき、音楽は多層なフェーズがおりかさなっていて、それが1つの出来事となっていくそのプロセスで、その主体は私の想像なのか、対象なのか、それを問う意味が存在する場所さえもなくなって、その世界の中でやってる、みたいに思えるとき。
線は、僕を描く。
やり直しのきかない、一本の線。
その一本が生み出される背景にはうんとたくさんの時間が投げ込まれていて、それでも線は一本、一瞬の出来事。
この本に描き出されている、水墨画のプロセスは、utena drawing にも近く、それで、とても驚いたのですが、ただ、この本には”音楽”に関する応えはどこにもありません。私の勝手な思い込みなのかな。ただ、「とき」というものを大切に扱っている、ということはわかります。
描かれる植物や風景と、線という時間と、僕
三点において、事象は立ち上がり、1つのものをなす。
その時、僕が、描くのでもなく、 植物が描くのでもなく
その間を取り持つ、線は、描く。
線は、僕を描く。
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