見出し画像

音楽とデザイン

音楽は均衡を壊すところから始まります。崩壊して再生し、崩壊してはまた再生し、そして別の均衡へと移行していく・・・程度の差はあれど、音楽は空間が時間にずれ込んでいく、という性質上、どんな音楽でもこの振り幅をやっているものだと思います。

例えば、拍を繰り返すというのは、音楽の一つの特徴ですが、拍というのがすでに、崩壊と再生の繰り返し。

・・・

ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」の研究記事を書こうとおもって、自分の練習を振り返ってみたりしていました。「亜麻色の髪の乙女」は随分昔に演奏したことがあって、今あらためてやってみて、いろいろ変わったことなどに思い巡らせていたわけです。たとえば、長いスパンで音楽のけしきが眺められるようになったこと。そのおかげで、音楽をある意味絵画の配置をデザインするように、エネルギーの配分などが自然にできるようになってきたことがあリます。

そうか、音楽をデザインするのか・・・と。

それで思い出したのは、昔ちょっとめくって読んでみた本にあった、コルビュジェのことばでした。

なんか、それは「自然」と「デザイン」の関係を語っていたような気がします。

何だっけ、と、昔に書いた読書録などをevernoteを引っ掻き回してさがしたら、あったあった。

”花・植物・木・山・・・もしそれらの真に偉大な様子に注意をひかれるとするなら、それは、それら自体で満ち足りていながら、あたり一面とも共鳴しあっているからだ。自然が調和にあふれる中、われわれはふと立ち止まる。あまりにも大きな空間が統一性で占められていることに心を動かされ、目を止める。
そして、見えたものを測るのだ。”

それで急遽、図書館へ。超久しぶり、図書館。

本は、これ。

9080円中古、高っ。と思ったら借りてきた本の定価は12000円でした。

でも、手にして、ピラピラとめくってみたときに、ああ、と。

デザイン、というのは確かに凍れる音楽だと。

ぐるりと一周りして、均衡に戻る。

響き合う。

同じ、音楽と。

一方で、でも、じゃあ、それらと差異化される音楽の音楽たるところの、あれ、はなんだ。とも。

わらべうたなんかは、もしかしたら、とっても「デザイン」ちっくなのかもしれない。まだ均衡の中にいて。

でも、幼年期から、少年期へ、思春期へと音楽が歩をすすめていくとき、ある種爆発みたいななにか、時間軸の中でしか生まれない衝動みたいなのがあって、音楽の振り幅は、シェーンベルクの登場を待つうんと昔からすでに、絵画にポロックやデュシャンが登場する衝動をもつもっともっと古い時代に、音楽はその性質上、デザインの破壊とその再生をやってきてる気がするのです。

画像1

教会なんかはそれがよくわかっていて、だから、音楽を「心惑わす」ものとして、注意深くあつかってきたのかもしれない。それでもグレゴリオ聖歌の中にもそれは潜んでいて。

そして、自分は、そう、あの、デザインという美のサークルの中にあって、まるでそれに拮抗するようにある破壊衝動。あれが見たくて、音楽やっているようなところがあります。いや、そこからのプロセスとたどり着く先を。

そして、お釈迦様の掌のなかで転がされるように、結局音楽も終焉する。均衡の世界に。

なんだ。

****

この記事はマガジン「音楽を描く’ことはじめ」に収めました。

亜麻色の髪の乙女、弾いてみた、はこちら





愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!