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音楽の自己組織化

昔つまびいていた曲、先生に言われてやった曲などの楽譜を今一度本棚からおろしてきて、弾いてみます。

最初は昔のくせが再生してき、ああ、ここでながれがきれてたんだとか、なんとなくわかります。


もう一度、もう一度、と繰り返すうちに
音楽がじぶんで形を整えていくような、自走していくような、
それでいて過不足なく自分もそこにいる、
そういう演奏になっていってる気がします。
音楽が自己組織化しているのにたちあっている、とでもいうか・・・

完成された音楽、というのではなくて、
いままで雲間にしか見えてこなかった音楽が
初めて姿を表した、というよな。
ここからが本当の始まりなのかな。
手繰り寄せる対象がうんと身近になってきてると思える。

それは、
歳をとって、経験がつみあがってきたからなのか、ドローイングが功を奏しているのかはわからない、そこは、両方が絡み合っているのだと思います。

その状態をひもといてみると、
まず、昔よりたくさんの情報をうけとめられるようになっていると感じます。
一つの音はどこへ向かおうとしているのか、それは一つ先、あるいは頂点、終点にむかって。
二つの筋三つの筋は互いにどう呼び合っているのか。
それはハーモニーとして聞こえながら、同時に、それぞれのパートのながれとして。

だから、過去の自分の演奏を再生してると、ここ、きこえてなかったんやな、とか繋がってなかったんやな、というのが、本当に面白いように見えてくるから、
結局もう一度やってみようか、ということになって、
ずっとその曲で遊んでいます。

https://twitter.com/utenamuse/status/1554982106463227904


昔は一生懸命理解しようとしていた。
わかったところを表現しようとしていた。
けれどその理解が一部分だったために途中でその意識が切れてしまう。
そこを自分の線でつないでしまってた
今弾きなおしていて
「あ、ほら、そこで気を失ってるよ自分」
と、おもう。
だから、そのときしらなかた、もう少し物語の先を読んでみよう、と
これは、受動でも能動でもなくて、相互作用のようなもので。
理解し繋がったものが、自走していく。
私はそれに少し色を添える。
自分の心地よさを少し取り入れる。

楽曲分析は大事。
でも、その分析がどう自分の身体の中に作用するか、
ということを同時にやっていくことはもっと大事、なのに、
そのどちらもを多くの場合後回しにしているような気がします。

これは、初級者でも深く音楽に関わっている人でも同じで、
ドレミがわかる、というだけでもそれはもう理解であり、
楽曲分析だと思うんですよね。その延長なだけなので
楽曲分析って全然難しい話ではないんです。
それが身体とつながっていれば。

もちろん、練習も大事。
音楽と自分を見失わないで。

テクニックは理解から生まれる必然性。
自分にフィットするまで、やりすぎないってことも
大事と思っていて。ほどほどの見極め。
私はちょっといつもやり過ぎて戻る。

もちろん、また見失うかもしれない。
そうでなければ面白くない。
けれど、今見ている地平はたしかに
今まで見たことがない景色。





愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!