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ミルクコーヒーはビーカーで

 高校3年、夏。日本に「帰国」し、東京の高校に通い始めて数か月。うわべではそこそこ環境に適応していたけれど、ほかの帰国子女のみんなほど語学力もなければ大人でもなかったわたしは、なんのために通学するのかわからなくなりつつあった。欧州生活で忘れていた、日本の熱風と湿気に毎日驚いていた。

 英語で赤点を取っては「さすがキコク」と先生に笑われた。部活に入らないことで、知らない生徒からは「ずるいのはダメだよ」と忠告された。学校が終われば急いで電車を乗り継ぎ、姉の入院先で愚痴を聞いた。終電で誰もいない家に帰る道々、台湾の歌手のカセットテープを聴くのだけが安らぎだった。

 先生たちもわたしの扱いに匙を投げていたと思うし、わたしも根こそぎ自分を捨てたかった。いつからか、始業のチャイムが鳴っても教室に入れなくなっていた。校舎内に薄暗い自販機コーナーを見つけた時は安堵した。そこに日中入り浸って堅い椅子を占領し、同じカセットテープを延々と聴いていた。

 秋になり、みんなが文化祭で賑わう頃、わたしはまだ自販機コーナーにいた。誰にも褒貶されない安全さは、マグマのような感情を上手く隠してくれていた。

「ねえ、ちょっと手伝ってもらえませんか?」

 白衣姿の知らない人が、藪から棒に話しかけてきた。根がいい子なわたしはつい「はい」と言ってしまった。

 ヘッドホンを畳んでついて行くと、地学準備室についた。その人は地学の先生らしかった。狭い準備室には『先客』が数人いて、黒いテーブルに教科書を広げていた。「淹れすぎちゃってね」と先生は言い、ビーカーになみなみとコーヒーを注ぎ、薬品保管用であろう冷蔵庫から牛乳パックを出して勧めてきた。

 わたしはどうしたらいいかわからなくてただ困っていたら、先生は「山、好き?」と訊いて壁のヒマラヤのポスターを指さした。わたしは無言で首を横に振った。「山はいいよ。私は吃音だったんだけどね。山に行くようになったらちょっと良くなったの」先生はゆっくり言ってコーヒーを啜った。

 「お寿司好き?」先生はまた訊いてきた。わたしは今度は頷いた。「じゃあ、センターが終わったら、お寿司いこう。築地で食べよう」わたしは終始ポカンとしていたが、勧められるままに着席し、勧められるままにコーヒーを飲み、唐突に始まる先生の短い話を聞いているうちに、笑っている自分に気が付いた。

 終業の鐘が鳴っても感情がかき乱されることはなかった。わたしは足取り軽く姉の元に行き、明るい気持ちで怒号と呪詛を聞き流し、楽しく帰宅し翌日を待った。晴れやかな朝日に照らされて、久しぶりにうきうきしていた。何の疑問も違和感もなく、この日からわたしは地学準備室に登校した。

 先生はわたしにもわかる言葉で科学の話をしてくれて、バーナーでポリッジを温めてくれて、なによりわたしに場所をくれた。先生や先客がいてもいなくても、そこに居れば単位になることにしてくれた。《不登校の受け皿》と表現するには先生個人のしてくれたことは多すぎた。それは大人になった今でもそう思う。

 約束通り、センター試験が終わってみんなの結果がだいたい出揃った頃、先生は築地でわたしたちを食べさせてくれた。ちゃんとしたお店でわたしはびびった。その時1人2万円は使っていて、わたしは初任給で先生にお礼をしようと決めたのに、その春で先生は他校に移ってしまわれて、あれから会えていない。

 SNSも探したし、同窓生にも聞いた。でも誰も先生の消息を知らなくて、わたしは今でも街なかで先生の面影を見つけては、小さく落胆するのが癖になっている。先生に話したいことはたくさんあるのに。先生が蒔いてくれた知識や好奇心の種は、何年もかけて芽生えて実って、わたしを人間にしてくれたのに。

 ありがとうと言いたい時には先生なし、なんてね。照れたりなんかせずに、もっと笑って、もっとありがとうって、伝えておけばよかったな。でも、それができるようなら、先生にも拾われてないか。

 あれから20年。今のわたしも誰かに、ビーカーでコーヒーを勧めることができていたらいいんだけど。ね。

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