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氷点下の子どもたちへ

 むかし英語圏の学校のトイレで女子らに個室に押し込められて麻薬的な何かを吸わされたことがあり、すぐ先生にも告げて父親にも言ったけれど、先生の設けた話し合いの席で、父は「いじめはやられる方に原因がある」「若気の至りで悪意はなかったはず」と述べて事を終わらせた。処世が上手い人だった。
 父は加えて「この子が話をでっちあげている可能性だってある」と言った。耳を疑ったが父は真顔だった。父は歩けない姉にも「歩けないふりをしているだけの可能性がある」と言ってはよく泣かせていた。そういう人だから共に居る意味はなかったが、彼が親である限り共に居るのは避けられなかった。
 わたしの中にあった「守ってくれる大人はいない」という思いは確信に変わった。父の発言を先生から聞いたのか、加害した子たちも「こいつはストレスのはけ口にしても問題ない」と学んだようだった。明くる日から持ち物を盗まれ、鞄に水を入れられ、後ろから突き飛ばされ、髪を引っ張られた。
 敵は見えなかった。隠れてやるから、背後からやるから、誰がやっているのかわからない。周りの子は笑うばかりだった。英語の罵声を知らない自分に苛立ったが、そうされる原因はわたしにあるのだから仕方ない、とも確実に思い始めていた。味方がいない環境で自分の正しさに確信を持ち続けるのは難しい。
 家にも学校にも安心できるところがないので夜は姉を寝かしつけた後、布団をかぶり本の中に逃げ込んだ。父は背中を掻いてあげると言ってはベッドに入ってきて、わたしの服の中に手を入れ背に手を当てて眠ってしまう。おぞましくても『原因はわたしにあるのだから仕方なかった』。
 叫びたいのを我慢して暮らした。多分たくさんのことに耐えていた。まだおかしくなっていない、まだわたしは正気でいる、まだ壊れてない、大丈夫、姉のことを守れる、呪文のように繰り返した。いつか姉を幸せにできさえすればよかった。この頃はまだ姉を幸せにできると妄信していた。
 汗だくになって姉の体を拭き上げながら、悪態を傾聴した。
「歩ける人はいいわね、どこにでも行けて」
 姉はわかっていない、と思った。わたしが姉を置いてどこかへ行くことなどありえない。
「あんたは孝行してるから天国に行けるんでしょ、あたしは親不孝だから地獄行き」
 姉は自虐的に話しては嗚咽した。
 わたしも聞いて欲しい悩みはあったが受け止めてくれられそうな人はいなかったので、自分の感情はがらくたのようにまとめて心の奥底に放り込んだ。冷凍すれば無いのと同じだ。感じないのは楽だった。なにか感じそうになれば氷を纏うように体ごと心を冷やせばいい。
 時々帰ってくる母はいつもなにかにむしゃくしゃしていてとりあえずわたしの首を絞めた。苦しくて涙が出た。なんでこんなことされなきゃいけないの…冷凍。苦しいよ、嫌だよ…冷凍。少し耐えれば母はストレスを解消して首を絞めるのをやめる。他のことを考えて待っていればいい。感情は冷凍すればいい。
 冷凍した感情は知らないうちに冷凍していい量を超えていた。負の感情はエピソード記憶を伴い、腐臭を放ち溶け出し始めた。屈辱は屈辱的な言葉とともに思い出され、悲しみも痛みもそう感じて然るべき体験と共に思い出された。今ある生活の上に、苛酷な思いをしていた子どもの頃の自分が覆い被さった。
 そうして混乱して過ぎた二十代の記憶は薄い。仕事をしながら濡れた鞄の感触を腹立たしく思い出し、姉のおむつを替えながら殴られた後頭部の痛みをつらく思い出していた。父母への憎しみも募った。死ぬことを楽しみに生きるほかなかった。介護の要る姉が生きる間は死ねない使命感が悩みだった。
 やらなきゃいいのに勧められてフェイスブックに登録した。学友はだいたい大学を出て就職して働いたり結婚したり子どもを産んだりしていた。笑顔のアイコンは眩しかった。介護仲間だったわずかな知り合いは自殺したり精神病院に入ったりしていた。わたしも姉の死後は墓石の画像になるんだろうと思った。
 やがてわたしを知る家族は全員死んだ。わたしはまだ生きているものの、ゆっくり自殺しているような気持ちは抜けない。ただ溜め込み過ぎた感情を書き出さないことには悔しくて死ねないらしい。そして書けば書くほどわたしは緩やかに回復し、出した膿のぶん身軽になる。今さら。
 荒地が整地されるように混沌を失うと、そこに新たな感情が芽吹く。許せないこと、間違っていることを是正したいという感情だ。これがわたしの望む報復の形らしい。賢治ではないけれど、どこかに「いじめはやられる方に原因がある」と言われている子がいれば、そう言う大人を黙らせに行きたいと思う。どこかに無断で大人に触られている子がいれば、触る大人をぶちのめしに行きたいと思う。どこかに必要もなく酷使されている子がいれば、それを正当化する社会を滅ぼしに行きたいと思う。思うばかりで現実にわたしは動けないから、またさらに、言葉を紡ぐことになる。紡ぐ言葉は人を誘ういざな。誘い誘われわたしが成り立つ。
 意味も目的も理由もなくくだらないと思われた人生には、その実わたしなりの規範があり、わたしにできる行動があり、わたしに見える景色があり、並んで歩く見知らぬ味方もいた。わたしはそれらの要素を書き記せることを不幸にも幸いにも思う。書く間は、迂闊に死ねない。
 昔からずっとそうだったように、明日も誰かの正しさで誰かが傷つき、誰かの保身で誰かが殺されるわけだが、「それは間違ってる」と子どものように無遠慮な一言を叫び続けることができたら、少しずつでも未来はましになるはずだと信じていて、信じたくて、わたしはとりあえずかつての自分に語りかける。
「あなたが悪いのではない。あなたの周りが悪い」。これは「だからそこから逃げろ」に通じるのだが、それはまた別の話。ひとまずこれだけ言い続ける。
「あなたの命には一片の非もない。あなたの受ける迫害に正当性などない」。子どもの頃のわたしと似た境遇の孤独なあなたに、この言葉が、届くといい。

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