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伝統ある銭湯「花園新温泉」を受け継ぐ方法を模索してるけど、すでに4年前の自分が答えを出していたかもしれない

杉本です。お久しぶりですね。noteにまとまった文章を上げるのは、約2年半ぶりのようです…。

奈良で、築100年以上の"おばあちゃんち"を改修した「西村邸」という小さな宿をやっています。この2年で海外からのお客さんが激的に増え、おかげさまで商売としてはうまくいっている状況でしょうか。もうすぐオープン5年を迎えます。

最近は、西村邸の目の前にある銭湯「花園新温泉」のクラウドファンディング(CF)プロジェクトにかかりきりです。
プロジェクトに関する公式の情報は、「花園新温泉」のアカウントで発信しています。今回は「個人的な思い」を話したくて、記事を書きました。この記事を通じて花園新温泉、そして「ならまち銭湯部」に関心を持っていただけたら嬉しく思います。長くなりますが、どうぞお付き合いください。


ぼくは銭湯を背負えない

古くからこの場所にあった銭湯の建物を買い取って、65年前に創業された「花園新温泉」。現在は、創業者の奥さま―90歳のおばあちゃんと、60代の娘さん夫婦の3人で切り盛りされている中、施設全体の老朽化、燃料費の高騰も重なり、数年前から厳しい状況が続いていました。とうとう年明けに、ボイラーからの水漏れという致命的な不具合が発生。後継者もいない状況で、閉業も考えられたようですが、西村邸の創業時、CFの経験があったぼくに、"最後の望み"のような心持ちで相談してくださいました。
このあたりの経緯は、CFサイトの記事に詳しいです。

世間の「銭湯(&サウナ)ブーム」の熱はまだまだ湯冷めの気配なく、日本全国であれやこれやと工夫を凝らした銭湯の様子が耳に入ってくる昨今。
正直、ぼく個人は銭湯文化に対して、全国の担い手のみなさんのような、強い思い入れがあるわけではありません。

風呂いすや足ふきマットを共有するのにうっすら抵抗がある、どちらかと言うと潔癖症寄りの人間ですし、銭湯の存続意義として「地域の社交場!」「裸のコミュニケーション!」を暑苦しく謳うオジサマに対して、どちらかというと冷ややかな視線を送ってしまう「現代っ子」(昭和61年生まれ)です。

ただ、就職活動期に d&department ナガオカケンメイさんの活動を知って以来、「使い捨てを前提にした商業的な流行サイクルと平準な大規模開発になんとか抗いたい」という想いだけが徒に強い、そんな人間です。
5年前の西村邸開業時、WEBサイトに書き付けた以下の文は、いまでも自分の活動の中心にあります。

「世間の注目を集めるのはいつも、大きいもの、新しいものですが、日々の生活の場にあって本当に心地よいものは、小さくて、昔から変わらず在るものではないでしょうか。」

65年前から変わらない佇まい。銭湯ブームに乗り切れないような花園新温泉の存在も、思えば"おばあちゃんち"で過ごした幼少期から今日まで、ぼくのこうした価値観に影響を与えています。
もともとお風呂がなかった西村邸は、リノベーションの際に作ったのも小さなシャワールーム一つだけ。湯船は施設内に作らず、町の銭湯を利用していただくことを前提にしています。

西村邸の玄関より。徒歩10”歩”の花園新温泉。ミネラル温浴泉。

銭湯そのもの以上に、花園新温泉という建物が健全な状態でならまちに存続することに意義を感じています。これが残り続けることが、どこかで世界の未来にいい影響を与える。その可能性を信じたいのなら、喪われようとしているいま、手助けしないのは自分のポリシーに対する「嘘」である。そういう思いで、CFの企画・運営を引き受けさせていただきました。

ぼく自身が後継者として名乗りを上げるという選択肢も、もちろんないわけではありません。
ただ、サウナもジャグジーもないとはいえ、それでも維持管理に人手が必要な大きい公衆浴場。人件費を割いて、経営を続けていける?遺憾ながら、いまのぼくの眼には”NO.”と映ります。
ぼくは無敵のノウハウを持つ敏腕銭湯経営コンサルタントでもなければ、自身の寝食を削って無償の愛を銭湯に注げる銭湯ホリックでもありません。
掃除のをお手伝いをするたびに、「銭湯はもはや、一人の情熱で云々できる施設じゃないのでは…」という絶望感が、冷や水をぶっかけてきます。


風呂掃除を部活動にする

CFは、6月27日に始まりました。明け透けに言って大きくハネることなく、残り2週間を切りました。名目上は目標達成していることになっていますが、実態は40%程度の達成率です。

普段はこぢんまりとした町屋の中で粛々と暮らしているぼくは、久しぶりの積極的な営業活動や、多くの人が関わるイベントのとりまとめに、正直かなり疲弊しています。

プロジェクト設計の甘さに対する後悔は、足の踏み場もないくらい、いたるところに転がっていて、躓くたびに「あとちょっとだ。やれることをやるしかない。『やる』っつったんだから、ダセぇことすんな」と言い聞かせるばかり。意地と一緒になってぼくを支えてくれているのは、点々と、細々と、それでも確かに存在する周囲の方の協力です。

今回、CFの主体として「ならまち銭湯部」というチームを立ち上げました。

プロジェクト準備期間から携わってくれているコアメンバーだけでなく、プロジェクトが公開されてから応援に参加してくれた方みなさんを「部員」としています。
CFの金銭的なご支援はもちろん、「部活動」と称して取り組んでいる週1回2時間の清掃活動、8月10日と24日に開催するイベント。これらに協力してくださる方、みんなが「部員」です。

部活動 6/30
部活動 7/11
部活動 7/21
ならまち銭湯部 文化祭#01にて
コアメンバーのひとり、デザイナーの倉さんが手作りしてくれた部員バッヂ

「部活動」と呼ぶことにしたのは、仕事でもない、義務でもない、地域のためのボランティアでもない、自主的な娯楽、例えば仕事終わりにフットサルなりバレーボールなりをするような、サークル的気軽さで語りかけたかったからです。面倒な入部手続きはなく、出欠確認、事前予約もとりません。

これまで老若男女、40人ほどの「部員」が参加してくれていますが、その動機を「熱意」と呼んでいいのかどうか、ぼくにはわかりません。「興味」、「関心」、「なんか奈良町で銭湯の掃除をやってる人たちがいるらしい」これで十分だと思っています。それで40人集まって来てくれていることだけで、いまのぼくには明るすぎる希望です。

そしてその中から、時々「メラッ…!」と立ち上るひと際強い熱気に、大きな勇気を頂くのです。

これまでいくつかの銭湯の“営繕”に携わってこられ、「部活動」以外にも自主的に大阪から通ってくださるKさん

イベント出店者の一人として声をかけさせていただいたところから始まり、いろんなご友人を巻き込み、宣伝してくださるSさん

最初の「部活動」に参加してくださってから足繁く参加し、イベントの出店に立候補までしてくださったNさん

もちろんその他の部員さんにも、有難い思いでいっぱいです。


全員で少しずつ"預かり"、"共有する"

支援のお願いで、ある方に久しぶりに連絡をとろうとしたとき、4年前に自分が描いた記事を発掘しました。
ある方とは哲学者の鞍田崇さん。その記事は、福島県の伝統工藝のドキュメンタリー映像に関わるものでした。拙筆、ちょっと長くなりますが引用します。

一人の方から出た鞍田さんへの質問に関して、とても印象的なやりとりがあったので書き残しておこうと思います。
その問いは「伝統文化/産業は、なにをもって”伝統”になるのか」というものです。それに対して鞍田さんの出した答えは「バトンを渡す、共有する感覚が生まれた時ではないか」というものでした。

たしかに『からむしのこえ』の冒頭は、「親から『からむしは絶やしちゃなんねぇ』と言われて育った」というおじいさんの言葉で始まります。他の家から、管理が続けられない苗を引き受け、少しずつ現れる後継者のために、栽培を続けていらっしゃいます。もちろん今年収穫した分の収益はこのおじいさんのものですが、からむしの苗や、紡ぎ/織りの文化は、昭和村全体―先代―後継者と共有しているものかもしれません。

鞍田さんはさらに、市川崑監督の映画『細雪』の一場面を例に出して話されました。映画の筋自体は省きます…終盤、大阪駅のホームで、東京へ発つ主人を使用人が見送るシーン。そこで使用人は「(大阪の)お屋敷はちゃんと”お預かり”しています」と言いいます。

この場面で選ばれた”預かる”という言葉が、”伝統”の精神を語る上で非常に象徴的ではないか、という見解でした。

”伝統”という言葉は、ある面では閉鎖的な堅苦しさを帯びていますが、ともするとその堅苦しさは、先代から”預かった”という責任感から生まれるものなのかもしれません。
ですが、そこに果たすべき責任があるのだとすれば、預かった者が取り組むべきは、形をまもると同時に、次に預かってくれる人に対して扉を開くことだとも考えられます。

「バトンを渡す、共有する感覚」
「そこに果たすべき責任があるのだとすれば、預かった者が取り組むべきは、形をまもると同時に、次に預かってくれる人に対して扉を開くことだ」

4年前の自分が書き残していたこの感覚が、いまの自分がならまち銭湯部に感じている希望にとても近く、鳥肌が立ちました。

「流行ってるから簡単に言うけど、銭湯の仕事はそんなに甘くない」
「わが子にこんな大変な仕事を継がせるわけにはいかない」
「今の状態で続けたって黒字化するわけない」

銭湯に限らず、時代の変遷とともに失われつつある伝統文化の担い手は、その厳しさ、あるいは優しさによって苦渋の決断をし、重い重いバトンを渡すことを諦め、ひっそりと暖簾を畳む方も多いと聞きます。

西村邸の準備をしていた5年前から数えても、(ぼくの知る限り)奈良市内で5つの銭湯が無くなっています。ぼくたちが閉業を知るのは、ご主人たちがバトンを渡さないこと、終わらせることを決めた後です。

ちょっと待って。そのバトン、みんなで共有できませんか。

花園新温泉はおそらく、昭和のライフラインだった「お風呂」として息を吹き返すことはない。特殊な浴槽やサウナなどのハードコンテンツに乏しく、令和のブームに乗った「銭湯」として生き残れるかもあやしい。そんな花園新温泉の伝統は、誰か一人が背負うにはあまりに重い。

本当にそれが、人々の間で語り継がれる「伝統」になれるのであれば、いっそ軽々しく切り出して、多くの人に共有する、“預かってもらう”ことで、受け継ぐことはできないか。そんなこれからの銭湯の在り方に、かすかな希望を感じています。

「休みの日に2時間だけ顔を出して、ちょっと体を動かしたい!」
「銭湯でこんなことできたらおもろいんちゃうか?」

こんな軽はずみな思いが、いまの花園新温泉には欠かすことのできない燃料です。
潔癖症でもいい。銭湯に一度も入ったことが無くていい。別に銭湯文化を愛していなくたっていい。極めて軽々しい、軽率な、人によってはミーハーな、「銭湯に関わってみたい」という気持ちに対して、どれだけオープンにできるか

CFのタイトルは、そんな思いをもって「ならまちのえんがわとして開き直したい」というものにしましたが、「部員」のみなさんのおかげで、実態がタイトルに追いついてきました。
最初は、後継者としてオールインできる人が名乗り出てくれたらなぁ、とも楽観的に考えていました。それが難しいのではと感じたいま、30人が月に1回ずつ番台に座れれば、それでいいじゃないかと思ったりもしています。いや、ぼくは週1くらいなら入れると思うので、あと26人で大丈夫です。

CF成否はわりませんが、取り組むことで、この質感を肌で感じられたことに、とても手応えを感じています。

5年前の西村邸CFは、自分の事業のためのものだったので気づけませんでしたが、あるいはクラウドファンディングの本質は、そういうものなのかもしれませんね。

鞍田さんは「現代は、手にしたものを全て自分のものだと考えてしまう時代」だとおっしゃいました。
(中略)
ぼくも西村邸を預かっている身だと言えます。母―おじいちゃん―ひいおじいちゃんから、そして次にここを使うであろう誰か、からです。
西村邸や奈良町、日本の暮らしを“伝統”として受け継いでいくには、開かれた共有の精神が不可欠だと、改めて感じさせられた機会でした。

いっそ「流行」でいいのかもしれない

最近ぼくは、自分、そして人間の大小の営みすべてが、大きな大きな水の流れのほんの一部にわだかまる、小さな小さな渦のようなものだと考えるようになりました。
すべて実体があるわけでもなく、少し流れが変われば消え去ってしまう。そんな虚しい渦ですが、その渦は大きな大きな流れの中で、その部分に、その一瞬しか結ばれないものです。その渦の一部を掬い取ったものが、表現、創作、芸術だ、と。そう思うようになりました。
一つ一つは虚しく、いつか必ず消えてしまう「流行」ですが、少し大きく、長く留まった渦は、川の形を変え、その後の流れに影響を与えるかもしれません。

ナイス渦。アコースティックライブ、古着市、マッサージ、ビール、カレー、そのほかなんやかんやを銭湯で♨

ということで、改めてCFサイトのリンクを貼らせていただきます。ここまで読んでくださったあなたと、おなじ「ならまち銭湯部」の部員として、花園新温泉を預かれる、共有できること、楽しみにしています。ぜひ”軽率”にご参加ください。

また、この記事にいただいた「サポート」は全額、花園新温泉の改修に充てさせていただきます。応援、どうぞよろしくお願いいたします。

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