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One more time

「え?言わない?」
思わぬ反応にちょっと焦った。
「言わないねぇ」
それを悟られないように平然としたふりをする。

そうか、やはり言わないのは良くないのか。
思わずスマホの画面に目で語り掛ける。

娘の未希が小学生1年生になった春の写真。妻がいつもとは違うボブカットにしたのがよく似合っていた。そういう時も言葉にした方が良かったんだろうか。薬指の指輪の感触を確かめるように半ば無意識にくるくる回す。

「何で言わないの?」
いつも頷くだけの彼女が少しキツめな口調になった。
「別に・・・言葉にしたって口先だけな気がするし」
目の前の彼女に言い訳してどうするんだろう。
「正直、良くわかんないんだよね。その言葉の使いどころ」
彼女ならこの難題の答えを教えてくれるんじゃないかと少し期待した。


この立ち飲み屋で知り合ってもう半年ぐらいだろうか。ここはひとりで飲みに来る人ばかりで、みんな知らない者同士。勤め先も名前も知らない関係だから普段の愚痴を言いたい放題だ。それに「うん、うん。わかる!わかる!」なんて適当で無責任な相槌を打ちながら過ごす場所。

彼女もひとりで来る。いつもたまたま隣になった人の愚痴を聞きながら「うん、うん」と相槌を打っていた。あれじゃナンパしてくださいと言わんばかりだと他人ごとながら少し気になっていた。

「帰らなくていいんですか?」
そんな彼女からの視線が気になり始めて少し経った頃、声をかけられた。私が心配して気にかけていたのを誤解されたのだと思った。

「週末には帰ります。単身赴任中なんですが週一には帰れる距離で」
予防線を張って嘘と本当が半々の言葉を返す。
念のために笑顔で家族の写真を見せた。
これ以上の面倒は今はいらない。

「ああ、そうなんですね」
がっかりさせると思ったが、予想に反して彼女からホッとしたような顔と言葉が返ってきた。その表情に私もホッとする。自分の自意識過剰っぷりに苦笑い。たぶん彼女もただ頷くだけのあまり話さないヨレヨレおじさんを心配してくれていただけなんだ。

その日を境に二人で飲むことが多くなった。ここは年齢も関係ないから、男友達相手のようなタメ口にする。そういえば指輪を回す癖がついたのもこのころだ。
「未希がね。こんな絵を描いてくれたんだ」
週末にあったことを彼女に話す。
その時の出来事を確認するかのように。
彼女はただ「うん、うん」と嬉しそうに聞いてくれる。

妻と出会った時の気持ちを話しながら思い出す。
娘が生まれた時の感動ももう一度噛みしめる。
妻と喧嘩した話には女性側の気持ちというものを解説してもらった。
ただ、おかげで仲直りできたというのは、私の願望と彼女へのリップサービス。
子犬の名前はマシュマロで、その由来がホワイデーのプレゼントだからなんて話をしたのは彼女だけだ。少し話し過ぎた。

どうしてそんな話を嬉しそうに聞くのか不思議に思わなくもなかったが、聞いている彼女の笑顔がこのどうしようもない惚気話を幸せにしてくれる。きっと彼女自身が幸せの見つけ方が上手なのだ。

私は・・・私は幸せかといえばそうなんだろう。あのまま絶縁されて当然だったのに執行猶予を与えられたのだから。理由はともかく単身赴任というのは嘘じゃない。週末だけは娘のために帰れるが、ひとりの夜を過ごすための場所が必要だった。

***

そのうち緊急事態宣言だのマンボーだのであの飲み屋にも行かなくなっていた。店主のおじさんには申し訳なかったが、彼女が惚気話を聞いてくれないのでは意味がない。あの場所と料理で何とか自分を人間らしく保っていたのだが・・・。

ステイの私は、コーヒーを飲みながらベランダから下の道行く人を観察するのが習慣になっていた。あの店は近くだから時折見知った顔も通る。いつか彼女も通るんじゃないかと少し期待しなくもなかった。

あの日もまさか本当に通るとは思っていなかった。いや、本当に。
部屋も引払い、最後にとベランダから景色を眺めていたら歩いていく彼女を見つけた。慌てて挨拶もそこそこに管理人さんに鍵を返して急いで店に向かう。両手いっぱいの荷物が重い。

「お久しぶり」
息が切れていたがバレないように整えてから声をかける。

「あっ、ひさしぶり。元気だった?」
振り向いた彼女は笑顔で、元気そうで、安心した。

「ああ、ちょうど良かった。ちょっと時間ある?」
花壇に座ったのはご時世もあったけど、素敵なカフェなんて空間は避けたかった。缶コーヒーを2本買う間に何を話そうか考える。

言葉が出ない私より先に彼女が自然と会話を始めた。
「大荷物だね。帰るの?」
「まぁね。しばらくは自宅からリモートで仕事するよ」
家でもどこでもネットで完結する職業だから嘘はついていない。
「へぇ、そうなんだ。良かったじゃない。愛するご家族のそばに居られるようになってさ」
いつものように、揶揄うように、彼女は私が幸せなんだと確かめてくれる。

「それがさ、大変だったんだよ。今月の最初に熱が出ちゃって!結局普通の風邪だったんだけどさ、すぐに検査してくれるところもなくって、病院も行けないし・・・理恵さんに泣かれちゃって。」

それが帰る・・・帰れるきっかけになった。
妻は電話の向こうで泣いていた。
「辛い思いにさせたまま死んだら許さない」
このセリフが頭に反響して言葉が途切れる。

我に返って今からの事を考える。
「やっぱ言った方がいいかな」
「ま、言わなくても伝わってるんならいいけどさ、伝わってるって思い込みだったらどうする?」

そうか、あれ以来妻に繰り返し謝ってきたが、それだけではこの大切な事実は伝わっていないのかもしれない。

「言って何か損する?」
「ハズイ、嘘臭くなりそう」
ハズイは無理して若者の言葉をマネた軽口だったが「嘘くさい」は私の置かれた状況下では深刻な問題だった。

「よし、その”恥ずかしい”は却下ね。あとは言い方次第でしょうよ。気持ちが嘘じゃないならきっと嘘臭くならないって」
私の気持ちに嘘がないことは本人である私が一番知っている。ただ今の自分の言葉を信じてもらえるだろうか。

「そうか、そうだよな」
今そこまでは話す気はないから曖昧な返事をする。

「泣かせた分ぐらいは言ってみたら?」
”泣かせた”という言葉に指先が反応する。

「うん。そうする」
小さく返事をする。

タイミング悪く妻から電話がかかってきた。
「大丈夫だよ。7時には電車に乗れるよ。じゃ、後でまた電話するね」
また彼女に何か言われそうだったから、自分の中の最大限に優しいニュアンスを選んで返事をする。

「いろいろ話聞いてくれてありがとうな。これ、お礼。これを店に預けようと思って来たら居たからびっくりした」

店主宛に書いたカードを抜いて渡した紙袋には有名店の焼き菓子と写真が一枚。まだ賑やかだった頃の店主のおじさん、愚痴ばかりのあの人やこの人、そこに私たちも混じって写っている。

「ありがとう」
それから何ラリーか定型の挨拶をやりとりしてから別れた。

この横断歩道を渡ってしまえば二度とこの街に来ることはないだろう。
渡り切る寸前で振り向くと彼女はもう歩き出していた。

いくつかの小さな嘘を置いてゆく。
彼女にいつか本当の幸せの笑顔を

嘘つきの私も置いてゆく。
今から伝えたい気持ちが嘘と混じってしまわないように

One more chance

<了>

 


元のお話

オマケの話


ペンギンのえさ