合唱部で、適応障害になったかも

最近、高校2年生の記憶が蘇ってしまう。夜寝ようと思っても、当時のいろんな場面が蘇ってきて、考えないように考えないようにするんだけれど、なぜか記憶も涙も止まらない。これがトラウマというものなのかな。

あれは、夏のコンクールの関東大会が終わって、結果が出た後だった。外でみんなで円になって一人ずつコメントしているときだった。結果は銅賞だった。私は、全国には行けなかったけど出場できてよかった、という感じで次も頑張りたいです的なコメントをした気がする。他の部員も同じようなコメントをしていたと思う。みんな頑張ったね、じゃあ帰ろうかで終わると思った時、みんなの前で顧問が怒声で私に言った:

「あんたが下手だから悪かった、あんたがいなければよかったのに」

適応障害。
高2の私ははその存在も知らなかったけれど、社会人になって適応障害と診断されて、復活して今、振り返ると高2の私も理不尽な環境で適応障害になっていたんだなと思う。
合唱部は最初は楽しかったけれど、2年生になると「声が汚い」「他の人の時間を無駄にするな」「足を引っ張るな」など、顧問に結構心無い言葉を言われるようになり、劣等感を植え付けられていった。
毎日、今日は顧問に怒鳴られませんようにって祈って、部室にビクビクしながら行っていたのを覚えている。家ではずっとイライラして物に当たったり、泣いたり情緒不安定だった。でも、きっと先生も友達も私が限界なのには気がつかなかったと思う。私は声が汚いっていう劣等感があったので、こういう扱いを受けるのはしょうがないと思っていたから、周りに辛いんだって相談するのも違うな、もっと練習しないといけないという強迫観念があった。あと、限界だったから逆に明るく振る舞おうとしていた。歌う時の表情を褒められることが多かったから、悲しくても辛くても無理やり口角上げて表情作ってたりしてた。当時の私は、孤独で劣等感があって、愛という言葉も知らなかった。

自分の立ち位置は、いる環境で大きく変わる。そう実感したのは、大学生の頃だった。誘われて大学合唱団の体験練習に行った時に、「声が綺麗だね」と言われたのに驚いたのを覚えている。お世辞でも嬉しかった。縁あってそこで合唱を続けた。大学でも辛いことがあったが、高校と違ったのは、限界になった時に人前で涙が出たことだった。その時のことよく覚えている、泣いている時そばにいてくれたことは今も忘れない。

この前、パートナーに高2の時の話をした。
顧問にどんなことを言われても、歌が好きな気持ちは変わらなかったこと、狂ったように自主練をしたこと(毎朝7時に学校に行って練習をしたり、日曜日に学校にお弁当を持ち込んで練習したり、10分でお弁当を食べて練習したり)、それでも部活では孤独だったこと、顧問に「あんたが下手だから悪かった、あんたがいなければよかったのに」と言われた日、私のために悲しんでほしいと思ってホテルの部屋から飛び降りたい衝動を必死に我慢したこと、いろんなことをパートナーに話した。その時、彼に「私だったらその顧問蹴り飛ばしてたよ」と言ってくれた、共感して理解してくれたのが嬉しかった。

自分の過去と向き合うのはとても辛い。もっと早く部活をやめていれば、あの音声を録音して訴えられていたら、早く逃げていたらもっと生きやすい場所があって、楽に生きられたんじゃないかと思う。今も泣きながら書いているが、それでも書きたいと思うし、この話を友達やパートナーにも少しずつ話している。何か書けば、話せば辛いことも消化できると思うし、自分を慰められるから。

大事な高校時代を理不尽な顧問と過ごしてしまったのは人生最大の後悔だったが、心身の健康を優先して会社を転職したり、「逃げ」の選択ができるようになったのは、10代の頃理不尽な環境下で耐えてたおかげ(?)なのかな、とも思う。それでも嫌だけど。ただ、「逃げ」の選択肢は周りにこれからも広げて行きたい。実際パートナーにも、「仕事が嫌だったらすぐにやめてね」と口癖のように言っている最近。

ここまで書いて少しスッキリしたので、今日はよく眠れそうだ。
いつか、顧問に会うことがあったら私に謝ってほしいな。そしたらもう思い出すこともなくなるだろう。







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