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物語と人種について考える:「リトルマーメイド」が黒人ではいかんのか問題

実写版「リトルマーメイド」の人種問題について最近、ネットで議論になっています。私にしてみると「なにを今さら」なんですが、思うところを書きます。

パフォーミングアーツはなにで評価されるのか

 結局、ここなんだと思うんですよね。

 一般的にはリトルマーメイドというのはアンデルセンの人魚姫のイメージだから、北欧系(色白金髪)の女性のイメージです。

 ですが、それをパフォーミングアーツとした時に「どこまで寄せるべきか」という時に黒人じゃあ、イメージと違う、だからダメだ、という人はアメリカにも、日本にもいます。

 ですが、そんなんいうたら殺人事件の映画をやるんなら実際に人を殺さないかんのか、という話になります。実際には「殺してる演技」「人形」「CG」などいろんな方法があるわけですが、より「本物に近いこと」を追求する必要な必ずしもないわけです。

 大切なのは「物語全体として」その女優が必要であるかどうか、であって、肌の色ではないのです。

「白人ならいいのか」問題

ところで、白人と一言でいってもいろいろあります。

個人的には中途半端にリアリズムを追求したスペイン人やらスウェーデン人設定のドラマの俳優があかさまにアメリカ人だったりすると、それはそれで気になってしまいます。

でもって、そんなんこだわり始めたらきりがなく、「この女優、イギリス人の役なのにカナダまるだしやん」「貴族の役なのに労働者階級のなまりがある」とこだわりつづけることになります。

身近なところで言うと、コッテコテの大阪人設定の人がべらんめえ口調だったら「同じ日本人だからキャスティングに問題がない」といえるか、とか気にしだしたらきりがないのです。

日本人も受け入れられてきてますしね…

 ちなみにアメリカ・ヨーロッパで日本人が「東洋人以外の役」をやる例というのはずっと以前からあります。

 ざっくり探してみると、関屋敏子というオペラ歌手が1931年にイタリアでベッリーニの「夢遊病の女」のアミーナという白人役をやっています。バレエは遅くて1985年に森下洋子がパリのオペラ座で「くるみ割り人形」の主演をしています。

 なので、私自身は「アジア人も白人役として受け入れられてきた歴史があるので、黒人がダメだというのならアジア人もダメだろうし、こと黒人だけが違うというのは違うんじゃないかと思います。

もっと反発された時代もありました

 そんな私もブロードウェイで初めて黒人女性が主演した「美女と野獣」のことを聞いた時は「え?」と思いましたし、実際、当初は評判はよくなかったと思います。

 ただ、自分の世代のちょっと前に黒人俳優のみで演じる「ライオンキング」と多くのアジア人俳優を登用した「ミス・サイゴン」がロングランになっており、黒人やアジア人でも優秀な表現者がいる、ということを多くの地元の人たちが理解し、結果、人種を超えたキャスティングが徐々に広がりました。

 今、アメリカでもイギリスでも主要なミュージカルやオペラ、バレエに黒人やアジア人が参加するのはその物語の舞台に関わらず、当たり前の状況になっています。

そもそもパフォーミングアーツは表現とイマジネーションを楽しむもの

 一方で、もともと日本では歌舞伎も能も狂言もリアリズムを追求するというよりも、表現者の表現を、観客がイマジネーションで補って楽しむという伝統があります。

 よく海外の人に女形や宝塚がグロテスクだといわれるのですが、日本人は「女性より女性らしい」「男性より男性らしい」といって逆に表現者を評価して楽しんだりします。能や狂言のように衣装や舞台装置のような視覚効果をそもそも強調しない芸能もあります。

 だから、「なんでことさら肌の色?」と私は思うわけです。

 パフォーミングアーツの一番楽しむべきポイントは表現そのものなわけで、それが成立していればよいのですし、そして芸術というのは鑑賞する側の能力も試されるものです。

 

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