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台詞が一言もなかった男

「咲代さんなら、遊女になったって相当なものにはなるだろうけども。まあ嫁ぎ先でも良いとこを探せると思う。任せてみるかい、あたしに」
「はあ。それは御願いしたい」
 甚六は言いながら横目でもう一度、飾り籠を見た。至って気立ては良く、教えれば見事な才覚を示すあの子が、春を売る必要などあろうはずはない。見目が際立っているから、女将の言いようも分かるが、勝手な想像には嫌悪感を覚える。
「変な心配はしないでおくれよ。こちらも咲代さんにふさわしい、育ちの良い男だけを見立ててみるよ。しばし時間をおくれ」
「何卒よろしく」
 甚六はへつらうように頭を下げた。想像していたより数倍は不気味な女だったが、悪いようにはされまい。

小説咲夜姫/山口歌糸

小説咲夜姫は、竹取物語の筋書きに則って進みます。簡単にいうと竹取物語を知っていたらこの小説の展開はほぼ読めてしまうのです。

咲代さんが三年ほどで大人になったので、甚六さんは縁談の頼みを進めていきます。そのために訪れたのは、その町では名の知れた女性で、髪結床の女将でした。

女将は引き受け、美しい咲代さんに相応しい男を探してみようといいますが、どこかから話が漏れてしまい、甚六さんと咲代さんの住む屋敷の周囲には男達がうろつくようになります。婿を探しているなら自分にも可能性があるだろうと思い込む、不埒な男達です。

 甚六はこのままでは危ないと思い、家の前に一人、浪人を雇って置いた。この時季、気候も穏やかで昼夜を問わず人は外にいられたから、本当に油断ならなかった。浪人が木刀で何者かを叩く音や悲鳴が、甚六の仕事中にもよく聞こえた。
 咲代はいよいよ外出すら危うくなったので、髪結いも部屋へと呼ぶしかなくなった。用がなければ幾日でも家で過ごす質なので、本人はそれを苦とするようには見えなかった。
 うろつく男たちも相変わらず減らず、木刀打ちと悲鳴の止まぬある日、甚六の元を髪結いの下仕めの女が訪ねてきた。
「女将は足が最近悪いので、文を預かってきました」
 女はそう言うと玄関先で懐から紙を出し、読み上げようとまでしたので、甚六は制して奥へと促した。表に立つ浪人には、
「ちと秘密の話をするから、周囲の奴らを追い払っておいてくれ」
 そう言って銭を持たせた。浪人は鼻の穴を広げながら受け取ると、木刀を腰帯より抜き、敷地の周囲を巡り始めた。

小説咲夜姫/山口歌糸

その男達を追い払うため、甚六さんは一人の浪人を雇います。浪人は用心棒として屋敷に常駐し、不審な男を見つけたら木刀で殴りつけて追い払う役目を果たしました。

あまり知られていませんが、竹取物語でも屋敷の周りに男がうろつく場面があります。かぐや姫が美しく成長したので、ひと目見ようと集まった男達でした。大胆にも竹取の翁へ直接話をしたり、かぐや姫宛ての手紙を渡そうとする者もいたとあります。

この浪人さんというのが実は中々の存在感で、咲代さんの縁談は原作通りに中止となるので、用心棒の仕事は無くなるのですが、次の章で甚六さんが竹細工の教室を作った際、生徒としてやってきます。人と人には出会いがあり、別れがあり、また再会もあるのだということを、この浪人さんを通じて知ることができます。

「いささか落ち着いたようだ」
 甚六は房楊枝を手に取り、歯を擦り始めた。
「それは結構なこと」
 興味のない素振りはするがやはり女である。物騒な様子が静まって安心したらしく、ふう、と長い息を吐いた。
「あの浪人がね、竹細工を学びたいと言い出した。どの程度本気かわからないが、近いうちに教えてやろうと思う」
「それも結構なことで」

小説咲夜姫/山口歌糸

 ひとしきり出入りが続いた後、人けの切れる時間を見計らっていたように、静かに訪ねてきた者がいた。甚六が玄関で迎えると、以前雇っていた浪人だった。彼は竹細工の教室の噂を聞きつけ、やってきたという。
 甚六は妙な感動を覚えていた。あんな事件が起き、真面な心境でいられずにいて、雇賃を払っただけで追い出すような別れだった。にもかかわらず、忘れずにいてくれた。
(生き続けていれば、何かしら縁があるものだ)

小説咲夜姫/山口歌糸

余談ですが、この小説を出版する際の会議の場で、編集の方から「この浪人さんが後になってまた出てくると思っていた」と言われました。たしかに、最後に富士山へ登る際の護衛としてついて来る筋書きだったとしても面白かったかもしれません。

そして小説の中で浪人さんは、台詞が一言もありません。朝から晩まで甚六さんの屋敷を見回り、雇い主のためにただ黙々と働き続けました。

その後、暦の通りに宝永大地震が起こり、街から人々も逃げて、甚六さんたちの竹細工教室も無くなります。竹細工を少しばかり習って覚えた浪人さんもまたどこぞへ消えていきました。