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宝永山について

富士山というと、他県に住む人は一つの大きな山をイメージすると思いますが、実はいくつか連なった山を抱えています。

"側火山"(そっかざん)といわれるその山は、大きな山が山頂の噴火口ではなく別の場所から噴火することでできます。富士山も大きな山なので、噴火は頂上の火口ではなく側面から起こり、側火山ができました。

その一つが"宝永山"(ほうえいざん)です。富士山の南東側に位置し、どこから見るかによって形は違って見えます。富士宮など富士山の南側にある街からは、富士山の右側にこんもりと盛り上がって見え、静岡のもっと東側や関東の方だと正面にあり、北側に位置する山梨の辺りや西側からだと見えません。

山の噴火は大体、地震と一緒に起こります。宝永山も江戸時代の元号「宝永」の時に宝永大地震が起こり、その四十九日後に宝永大噴火が起こってできました。宝永四年、1707年のことです。

 翌朝、大きな揺れに甚六は目を覚ました。
(地震だ)
 そう思いつつ、寝床の背中に伝わる揺れを感じた。それはいつもの微小な揺れではない。ゆらりと大きく右へ、また大きく左へと、荒波の上にいるように身体を揺さぶるのだった。
「いかん」
 夜着から素早く飛び出すと、隣で眠る咲代へ向かった。
「咲代、起きろ。大地震だ!」

小説咲夜姫/山口歌糸

自著"小説咲夜姫"では、物語の途中に宝永地震が起こります。街はどこも潰れ、人々は皆非難します。

 咲代を叩き起こして背負い、竹藪へ避難したあの大地震から四十九日後。富士山は大きな噴火を起こした。
 富士山の噴火は、頂上からではなかった。規模は小さくはないが、後年にまとめられた記録によると、人は亡くなっていない。ただ町への被害はあった。その結果を見れば、祈りが通じたのかもしれず、まだ人の許される余地があったのかもしれない。噴火自体は、山頂から東側の斜面で起こった。憤る山の神を最後に戻ったある一人がなだめ、せめてもと逸らせたのかもしれなかった。その噴火によって、富士山の東の脇には、富士よりは背の低い山が生まれた。富士を親と例えるなら、小脇に幼子を連れて歩くようにも見え、その姿形で現在まで至っている。
 小さな山は、宝永山と名付けられた。

小説咲夜姫/山口歌糸

宝永地震に比べると、宝永大噴火は大した災害ではなかったといわれます。宝永地震は三百年前の周期にあたる南海トラフ地震で、日本での史上最大の地震だったといわれます。マグニチュードは推定9前後。理論上の最大級です。

宝永大噴火以降、富士山は一切まともな噴火はしていませんが、それは宝永地震ほどの大きな地震が起きていないからかもしれません。

また作中にも書いたように、小説咲夜姫では宝永山を一つのイメージとしています。富士山と宝永山の並ぶ姿が、まだ幼子だった咲代さんが甚六さんの着物の裾を掴んでついて行く光景にも見えるのです。

宝永山を正面に見える裾野市にあるソファのブランド"マニュアルグラフ"さんでは、宝永山ソファなる商品があります。可愛いデザインですよね。自分もいつか買います…!