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剃髪について

仏教の偉い経典には「どこぞの僧が髪を剃っていてさぞ珍しかった」という一節があり、古い時代の修行僧に剃髪の習慣はなかったと解釈されています。

理由は「旅をするから」で、説法や布教の旅の道中でこまめに剃髪する習慣は意外となく、その時代のお坊さんたちは髪も髭も伸ばしっぱなしであるのも珍しくなかったそうです。

ブッダの話を漫画や映像で観る機会もあると思いますが、旅の道中でもつるつるです。あれは史実と異なるのでは?という見方もあります。

ですがどこかに定住するとなれば、剃髪をしたといいます。

これが剃髪の文化の始まりで「身なりを気にする意識」言い換えれば「自己愛や異性を意識する心を断つ!」のが目的といわれます。坊主の字は元々「房主」と書き、その修行する房(部屋、建物)の主人という意味でした。

野球部員が坊主にする理由も、実は同じです。何か一つをひたすらに追いかける時、人は坊主にすればより集中できるという発想です。

 甚六はすぐに事情を察した。大股で近付くと咲代の後ろから、鋏を奪い取った。
「止めろ!」
 甚六はそれを、工房の隅まで放った。鉄の音が冷たく響いた。
 甚六が覗き見ると、咲代は無表情でいた。
「自分でやるものではないはず。作法は守れ」
 甚六様が、と咲代は呟くように言った。
「反対をなさるので、仕様がなく」
 そう言って悲しそうな顔をした。甚六はそれが心の奥から愛おしい。
「反対はしない」
 吐息交じりの情けない声が出た。
「お前の意思なのだから、俺は力添えをしようと思う」
 吐息が、また声らしい輪郭を取り戻す。
「髪を切るかい」
 諦めたように言った。咲代は長く美しい黒髪を揺らして、こくりと頷いた。
「剃髪し、修験者となり、行儀良く帰りとう御座います」
 習った作法通りに事を進めたいと話す声に、迷いは微塵もない。わかった、と甚六は応えた。
「だが、あの鋏はまずい。籤を切るのにも使う、竹の魂の籠った道具だ。俺たちの生計を支えてくれる、大事な物は避けなくては」
 じっくり諭すと、咲代は、涙こそ見せなかったが洟をすすり、
「御免なさい。大変な無礼を」
 と項垂れた。甚六は鋏を拾って、元の置き場所に戻した。
「良い刃物を買ってくる。お前は余計なことは考えず、待っていなさい」
「御気をつけて」
 咲代は頭をさらに深く下げた。襟元から絹糸のような黒髪が垂れた。
 (小説咲夜姫/山口歌糸)

小説咲夜姫では最後、元の世界へ帰ると決めた咲代さんが富士山を登っていきます。原案の一つとした、富士市の東泉院にあったという富士の竹取物語(富士浅間大菩薩記)でも、かぐや姫は富士山を颯爽と登って帰り、富士の祭神へと戻ります。

ただ小説として仕上げる時、神話にありがちな強引な描写や展開を用いるのではなく、どこまでも人間の民話として描き切ろうというのが本分でした。神様だから空を飛んで帰りました、というのは何より簡単ですし、あっけないかなと。

そういうわけで咲代さんは、その時代の人達の習い(江戸時代には登拝以外で富士登山は禁止)に従い、富士の修験者となり、髪も剃って街を発ちます。

当然ながら「わざわざそこまでする必要もない」と周囲には諭されますが、咲代さんはモデルとしているかぐや姫や木花咲耶姫と同様に頑固な性格なので、形式にはこだわります。

その女性の身で剃髪をするという行為は、男性が出家するのとは事の大きさが違います。女性にとっての髪は美の象徴でもありますから。しかしその美貌によって罪を数々作ってしまう咲夜姫にとっては、ある種の脱却だったとも解釈できるのです。

自分が著者として、原作にも全くない咲夜姫の剃髪をわざわざ用いたのは、山岳修験の風習の厳格さを表現すると共に、彼女の大きな決意を書き表したかったからでもあります。

「咲代。一つだけ俺は、気が変わったことがある」
 咲代もはっきりとした口調で、
「どんなことでも聞きます」
 すぐさまに言った。その心だけで甚六は満たされた。顔を上げると、咲代が勢い込んで見つめている。甚六は、ふと笑みがこぼれた。咲代は髪をなくした今も綺麗だ。対する自分の心持ちは不埒で、どこか滑稽でもあった。
 甚六は毛にまみれた鋏と剃刀を指し示し、
「俺も剃ろう。こうなったら道連れよ」
 咲代は目を丸くしたが、すぐに意味を察し、温かく微笑みを返した。
「嬉しゅう御座います」
 女としてだけでなく、娘として妻として喜んでいるのだ。着物をたくし上げ、その場に立って裾を叩いて、支度を始めた。
 一人の女、孤児の娘、内縁の妻でもあった咲代に、甚六は幸せに暮らしたと思ってほしい。
 (小説咲夜姫/山口歌糸)

現代の話題でも、例えば抗がん剤の影響などで髪の抜けた妻や子供に対して、男性が付き合って髪を剃ることはよくあります。意を決して剃髪した咲代さんに対し、甚六さんも自ら剃髪した理由は、男心でもあり親心でもあり恋心でもありました。